【訃報】石原慎太郎と野球(1)プロ野球界に物申す

芥川賞作家で元政治家の石原慎太郎氏が2月1日、膵臓癌のため亡くなった。
89歳であった。

石原氏といえば、一橋大学在籍時代に執筆した小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞して文壇にデビューすると、政界に転じ、参議院議員、衆議院議員、東京都知事などを歴任した。
自民党在籍時から党切っての「保守派」「タカ派」と呼ばれ、歯に衣着せぬ放言で何度も批判の的になった。
中には差別的発言も多く、謝罪に追い込まれたことも一度や二度ではなかった。

一方でスポーツとの接点で言うと、自身も幼少からヨット、サッカー、柔道などに取り組んだ。
政治家になってからも、東京都知事として東京五輪・パラリンピック2020の招聘に尽力した。

ヨット、サッカー、柔道、執筆の四刀流

石原慎太郎は1932年に兵庫県神戸市に生まれる。
それから2年後、弟の裕次郎が誕生する。
石原一家は、父の仕事の都合で北海道小樽市、神奈川県逗子市へと移転する。

慎太郎は終戦直前の1945年4月、地元の進学校である湘南中学校(現・湘南高校)に入学し、サッカー部に入部する。
湘南中学の周辺には海軍士官が多く住み、その師弟の多くが通った。
湘南中学のサッカー部は1921年、学校創設と共に誕生すると、1946年、第1回の国民体育大会の中等学校東西対抗戦で優勝するほどの強豪であった。
慎太郎は大柄な体躯でレギュラーを勝ち取るほどの実力だった。

慎太郎は一橋大学法学部に進学すると、柔道部とサッカー部の「二刀流」の傍ら、公認会計士の資格取得のための勉強に見切りをつけ、小説を執筆し始めた。
慎太郎が書いた小説「太陽の季節」は1955年、第34回芥川賞を受賞した。
23歳での受賞は当時最年少、昭和生まれとしては初の快挙であった。
その過激な描写は賛否両論を巻き起こした。
その作品は映画化され、弟の裕次郎も俳優デビューを果たし、大ヒットすると、「太陽族」という流行語と共に、裕次郎がスターダムにのし上がることになった
(映画「太陽の季節」は「映倫」がつくられる契機ともなった)

慎太郎自身も「文壇の新星」として、その言動のみならず、慎太郎のヘアスタイル(「慎太郎刈り」)まで流行するほどの注目を集めた。
さらに行動する作家として、南米横断1万キロ・ラリーにラビットスクーターで参加したり、1958年に作家の大江健三郎氏や演出家の浅利慶太氏らと共に「若い日本の会」を結成、安保反対運動などに取り組んだり、1967年には、ベトナム戦争に1か月、従軍取材し、それが翌年の参議院選挙への出馬、政界転出への契機となった。
自民党の議員時代は環境庁長官、運輸大臣を歴任し、1993年に総裁選挙にも立候補したが落選。
1995年に衆議院議員を辞職、一旦は政界を退いたものの、1999年には2度目の挑戦となる東京都知事に立候補、当選し、その後、4選を果たした。

野球界との交流

慎太郎の弟、裕次郎は野球界でも長嶋茂雄、王貞治らと交流があったのは有名である。
一方、兄の慎太郎は一見、野球に接点はなさそうだが、実は大いにある。

湘南高校の1学年下の佐々木信也は1年生の時に夏の甲子園で全国制覇を成し遂げているが、プロ野球選手を引退後、スポーツキャスターを務めている時に、石原が1975年に東京都知事に立候補し、佐々木はその選挙応援に帯同したこともある。

また、石原は友人の浅利慶太氏らと、神宮球場へ国鉄スワローズ・金田正一が登板する試合を観に行き、オフにゴルフを共にするなど、交流があった。
石原より1歳年下の金田が10年選手制度で読売ジャイアンツに移籍する際も石原は苦言を呈した。
「なんで今更、一番強いチームに行かなきゃいけないんだ。
負け続ける国鉄スワローズを君一人が支えている、そこに金田正一の男があるんじゃないか」

金田が現役の晩年、通算400勝を目指して苦労していた時も、石原はこう言い放った。
「400勝を挙げたら、スパッとやめるべきだ。
誰もあなたが打たれるのは見たくない。
なぜなら、あなたは金田正一だからだ」
と進言した。

金田は石原の言葉通り、400勝を挙げて引退を表明した。

日本プロ野球界への直言

石原は東京都知事を務めていてた2010年、プロ野球選手会が主催したイベントに東京都が協力したことで、当時の選手会長である新井貴浩(当時、阪神タイガース)、副会長の渡辺俊介(当時、千葉ロッテマリーンズ)から表敬訪問を受けた。

そのやりとりを抜粋しよう。

石原都知事
「選手会って、何の選手会?」

新井貴浩
「12球団のです。」

石原都知事
「弱いほうのセントラル・リーグが何で会長なのよ。
オレはタイガースびいきだけど。
もっと給料上げろ、というやつか。」

新井「(苦笑い)」

石原都知事
「野球の世界は一番閉鎖的だ。
FAは10年でしょ
(正しくは、海外FA権取得までは最低9年、2008年オフ以降、国内FA権は取得まで最低7年または8年)。
アマとやれなかったり、協会が4つも5つもあったり。サッカーは進んでる。
J1の下(下位のチーム)でも外国のスカウトが見て、欧州に連れて行く。
そういう自由さを出さなきゃ。年取ってから海外にいってもしょうがない。
(新井に向かって)あなたもすぐに(メジャーに)いきたいだろ?」
選手会長、しっかりしろよ。」

新井「(絶句)」

石原都知事
「野球は歴史が古い分、選手がかわいそう。
奴隷とは言わないが、買われた身で言うこときけみたいな。
野球のFAはサッカーに比べて不自由。
巨人ファンじゃないけど、ナベツネ(当時の巨人球団会長である渡辺恒雄氏)に言っといてやる。」

石原都知事
「Jリーグがアマチュアとの練習試合を盛んに行い、さらに有望選手をクラブ所属として公式戦に出せる仕組みがある。
一方の野球界ではプロ選手が高校野球部に所属する自分の子どもに野球を教えられない。
おかしいね。他競技でないものね。」

新井
「ごもっともです。サッカーと違って、プロとアマが振り払う垣根がある。
去年(2009年)11月は大学選抜とプロが試合をしました。一昔前には考えられないイベントなので縮めていきたい。」

石原都知事
「縮めるよりもぶっ壊さないといけない。野球界の未来はあまりないよ。頑張れ。」


いかがだろうか?
なかなか正鵠を射ている。

プロ野球ファンからすれば、都知事よりコミッショナーをやってほしかったかもしれない。

先天的アスリート型の作家、政治家

石原は2012年に都知事を辞任し、2014年に政界を退いてからは、脳梗塞に見舞われたが、かろうじて言語の機能だけは取り戻した。
その後、膵臓癌を患ったが、奇跡的に生還を果たしている。

そして、死が迫りくる最近まで執筆活動を続けた。

毀誉褒貶はあったが、石原慎太郎は弟の裕次郎とは別の文脈で、時代の寵児であった。

石原に「スポーツとは何か?」と訊くと、
「肉体の酷使だ」と答えたという。


石原慎太郎は先天的なアスリート型の作家であり政治家であったに違いない。
そして、死ぬまで「執筆」という「肉体と頭脳の酷使」をやめなかった。

石原にとって、スポーツも政治活動も執筆活動もすべて同じ一直線上に並んだ行為だったのだろう。

熱心な仏教徒だったという石原慎太郎さん、ご冥福をお祈りします。


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