伊藤将司(阪神)、新人デビューから3連勝!/タイガース新人投手の開幕連勝記録は?
阪神タイガースの昨年ドラフト2位の新人左腕・伊藤将司(横浜高校→国際武道大学→JR東日本)が5月8日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)で今季、無傷の3勝目を挙げた。
伊藤は新人ながら開幕ローテーション入りし、開幕5戦目となった3月31日の広島戦(マツダスタジアム)でプロ初登板、初先発を果たすと、5回を被安打8ながら、粘りの投球で2失点に抑えた。同点のまま降板したため、勝ち負けはつかなかったが、続く、4月7日の巨人戦(甲子園)でも先発、7回を投げ被安打6、6奪三振、1失点に抑え、7点の援護に守られ、プロ初勝利を挙げた。タイガースの新人投手が、巨人戦の初登板で勝ち投手になったのは、チーム7人目の快挙、しかも、巨人戦でプロ初勝利は初の快挙である。
4月13日の広島戦(甲子園)に先発予定であったが、雨天中止となり、続く、4月24日のDeNA戦(甲子園)では、13点の大量援護もあり、9回を投げ切り、被安打7、5奪三振、1四球、1失点で、プロ初完投勝利となる今季2勝目を収めた。これは今季の新人投手では、12球団いちばん乗りである。
続く、5月1日の広島戦(甲子園)は3回まで無失点に抑えたが、降雨ノーゲームとなり、先発を1回、飛ばすことになった。
5月8日のDeNA戦(横浜)では、同じ新人の牧秀悟(中央大学から2020年ドラフト2位)にプロ初の被弾をするも、8回を投げて101球、被安打6、1失点、3連勝をマークした。
伊藤は先発登板した4試合のうち、直近の3試合は7回・100球以上、すべて1失点と、非常に安定した投球を続けている。ここまで29イニングを投げて失点・自責点は5、防御率1.55。規定投球回数(35イニング)には達していないが、セ・リーグの防御率トップの高橋優貴(巨人)の1.71、同じく2位の柳裕也(中日)の1.72を凌駕する。
被打率.252は決して低いほうではないが、特に得点圏での被打率が低く、7打数1安打、打率.143、失点は許しておらず、しかも5奪三振。奪三振率は5.59と決して高くはないが、ピンチでは狙って三振を取れる投手だといえよう。与四球も1試合9イニングに換算すると平均1.55個と制球もよい。ここまでは非常に完成度の高い投手だといえる。
伊藤の次回登板は、5月15日の巨人戦(東京ドーム)と発表された。しかも、この試合は、タイガース対ジャイアンツという「伝統の一戦」、通算2000試合目という記念すべき試合。
無傷の4連勝なるか、注目だ。
それでは、タイガースの新人投手のデビューからの連勝記録を持つのは誰なのか?
タイガースの投手で、デビュー登板から3連勝以上を挙げた投手は、伊藤が12人目であるが、新人に限ると8人目である。
デビュー登板から4連勝以上は9人おり、うち新人は7人である。
池田親興 4連勝(1984年)
タイガースの新人投手で直近、デビューから4連勝を挙げたのは、1984年の池田親興である。
池田親興は宮崎県立高鍋高校野球部では「4番・ファースト」と控え投手を兼ねるも甲子園には出場できず、1977年ドラフト会議で阪神タイガースから4位指名を受けるも入団拒否、法政大学に進学する。しかし、法政大学でも投手としては控えで、東京六大学リーグでは4年時に挙げた通算2勝にとどまったが、社会人野球の日産自動車に進むと、投手としての才能が開花、ロス五輪代表決定戦に登板するまでに成長し、1983年ドラフト会議で阪神から再度、2位指名を受けて今度は入団した。ドラフト1位の中西清起と同等の評価だった。
阪神の1984年の開幕戦は、4月6日の巨人戦(後楽園)であったが、阪神が3点リードの8回1死二、三塁という大ピンチの場面で、池田は左腕・福間納に代わってプロ初登板、7番の中畑清と対戦。ところが、池田は中畑にいきなり2点タイムリー二塁打を浴び、1点差に迫られてしまい、打者たった一人で交代した(その後、9回に山本和行が追いつかれ引分け)。
それでも、首脳陣の池田に対する信頼は変わらず、3試合目の登板は4月12日、甲子園での大洋戦でプロ初先発のマウンドを踏んだ。池田はプロ初完投こそ逃したが、9回途中3失点(自責点2)でプロ初勝利を挙げた。
その後、4月18日の中日戦(甲子園)では先発で6回1失点、4月25日の阪神戦(甲子園)でも先発で7回1失点と好投し、デビュー3連勝。
続く、5月3日の広島戦(広島)は先発して4回2失点で降板するも負けが消える幸運もあり、連勝は途切れない。5月11日の巨人戦(甲子園)では9回を投げ切って1失点、プロ初完投勝利で4連勝を挙げたばかりでなく、打っては6回に巨人先発の定岡正二からプロ初安打・初本塁打となるソロホームランを放った。
6月17日のヤクルト戦(神宮)、池田は3回からロングリリーフし、6回を投げて無失点と好投、その間に味方が逆転したため、無傷の5勝目を挙げて、1963年の小山正明と並んで球団新人2位タイとなった。
6月29日、巨人戦(後楽園)では球団新人タイ記録となるデビュー6連勝を懸けて久々に先発マウンドに上がったが、ウォーレン・クロマティに一発を浴びるなど、5失点KOで敗戦投手となり、ついに連勝を止まった。
池田はシーズン終盤まで勝利を積み重ねると、9月22日の巨人戦(後楽園)で先発し、7回3失点で9勝目を挙げ、新人二桁勝利にリーチを懸けたが、9月28日のヤクルト戦(神宮)では、同じ10勝を懸けて先発した新人の高野光と投げ合い、7回4失点で敗戦投手になった(一方の高野は10勝目を挙げた)。
10月5日のシーズン最終戦となった中日戦(甲子園)、池田は中6日で先発マウンドに上がった。この試合が始まる前、チームメートの掛布雅之と中日の宇野勝がホームラン37本で並んで、本塁打王を争っていた。池田はベンチの指示で宇野を全打席敬遠したが(中日ベンチも掛布を全打席敬遠した)、7回を2失点に抑え、4点リードのまま降板した。
高野と並んで池田の10勝目は確実と思われたが、二番手の伊藤宏光が代打のケン・モッカに3ランホームランを浴びて、1点差に迫られ、9回には、25セーブを挙げている守護神の山本和行がマウンドに上がったが、中日打線に勝ち越しを許し、池田の10勝目は消えた。
もし、池田が10勝を挙げていれば、タイガースの新人投手としては1967年の江夏豊以来、17年ぶり、6人目の快挙となるところであった
(その後、1999年の福原忍、2013年の藤浪晋太郎が達成している)
池田は9勝8敗、防御率3.90で高野の防御率4.83(10勝12敗2セーブ)を上回ったものの、結局、セ・リーグ新人王は、打率.280、16本塁打の小早川毅彦(広島)にさらわれた。
池田は翌年1985年、2年目にして開幕投手を任された。前半は不調だったが、後半、盛り返して、2年連続のシーズン9勝を挙げリーグ優勝に貢献、西武ライオンズとの日本シリーズ第1戦でも先発、初登板・初先発・初完封を飾って、タイガースの日本一を引き寄せた。その後、池田は故障もあり、シーズン二桁勝利には届かなかった。
1991年から地元・九州のダイエーホークスに移籍し、クローザーとして2年連続二桁セーブを挙げ、1995年に1年だけヤクルトに在籍、プロ通算277試合に登板、53勝69敗30セーブで引退した。
中井悦雄 4連勝(1963年)
池田親興より前に新人でデビューから4連勝を挙げたのは、1963年の中井悦雄である。
中井悦雄は大鉄高校から進学した関西大学を中退して、タイガースに入団した。
1963年のシーズン前半は、二軍のウエスタンリーグで13勝1敗、防御率1.17、最多勝と最優秀防御率という無双状態で一軍に昇格した。
9月7日の巨人戦(甲子園)にリリーフでプロ初登板すると、王貞治、広岡達郎から三振を奪った。
続く、9月18日の大洋(甲子園)では、中井は8回、9回の2イニングを無安打・無失点に抑え、チームがサヨナラ勝ちしたため、プロ2試合目にして初勝利を挙げた。
すると、翌9月19日の大洋戦(甲子園)ではプロ初先発のマウンドに上がり、9回を被安打8でプロ初完封勝利。
続く、9月24日の国鉄戦(甲子園、ダブルヘッダー第2戦)でも被安打7ながら無失点に抑えて、2試合連続完封。
さらに9月29日の中日戦(中日)でも被安打2で無失点に抑え、新人ながら3試合連続完封をマークした。
間を置いて、10月17日の広島戦(広島、ダブルヘッダー第1戦)に先発、4試合連続完封を狙ったが、2回に藤井勇にソロホームランを浴びた。これでデビュー登板から31イニング連続無失点がストップしたが、勝ち負けはつかず、10月22日の中日戦(中日)で、3回4失点でついに初黒星を喫し、デビューからの連勝も「4」で止まった。
中井はそのまま、4勝1敗、防御率1.22でシーズンを終えた。
中井は翌1964年、開幕から先発とリリーフ、両方での登板となったが、5月に不幸が襲う。阪神電車の踏切を自転車で通行中、交通事故に遭い、右肩を打撲するというアクシデントに見舞われる。
翌1965年に1年ぶりに一軍のマウンドに上がったが、それがタイガースでの一軍最後の登板となった。
タイガース退団後、1969年に西鉄ライオンズに入団すると、1970年に自身6年ぶりに勝利を挙げるなどリリーフで42試合に登板するが、翌1971年シーズン限りで現役引退した。
中井は1979年に古巣タイガースの二軍投手コーチ補佐に就任するも、またも不幸が襲う。同年8月に36歳の若さで心不全で亡くなったのでる。
しかし、中井が亡くなった後も、新人デビュー登板から、新人という枠をなくしても「シーズン開幕から31イニング連続無失点」はいまなお、破られてはいない。
また、タイガースの日本人投手で3戦連続完封を成し遂げたのは、中井以来、現れていない(外国人では、1965年にジーン・バッキ―が達成している)。
栄屋悦男 4連勝(1954年)
栄屋悦男は近畿大学から社会人野球の鐘紡に進むと、左腕エースとして活躍し、都市対抗野球で優勝、準優勝の原動力となった。タイガースに入団後、即戦力として期待され、1954年のシーズン開幕3戦目の4月4日の大洋松竹(洋松)ロビンス戦(下関市営)のダブルヘッダー第2戦で初登板。4月7日の洋松戦(防府市)で初先発し、8回1死で勝利投手の権利を持ったまま降板したが、後続の投手がサヨナラ負けを許し、初勝利は逃したが、続く、プロ3試合目の登板となった4月11日の中日戦(中日)に先発し、5回を投げて初勝利を挙げた。
その後、栄屋は3連勝で迎えた5月2日の巨人戦(後楽園)で5回、被安打5、6四死球と大荒れながら、3失点に抑え、無傷の4勝目を挙げた。タイガースの新人投手として「巨人戦初登板・勝利」は、1949年の田宮謙次郎に次ぎ、球団2人目の快挙となった。
栄屋は新人ながら先発ローテーションに入ったものの、8月、練習中に打球を目に当てるという不慮の事故に見舞われる。そのシーズンは27試合に登板して(うち先発は19試合)、7勝(5敗)を挙げたが、翌年1955年はわずか4試合の登板に留まり、自由契約となった。その後、広島カープに入団したが、1956年の1シーズン限りで退団、現役を引退した。
山中雅博 5連勝(1954年)
左腕の山中雅博は大阪・上宮高校からテスト生でタイガースに入団した。
その後、上宮高校からは多くのプロ野球選手が生まれるが、山中は上宮高校から初のプロ入りだった。
山中はテスト生の高卒新人にもかかわらず、1954年の5月8日の巨人戦(甲子園)では、17歳3か月でプロ初登板を果たし、3回を1失点に抑える。その5日後の5月13日の洋松戦(大阪)ではプロ初先発。7回まで1-0で抑えていたが、8回に1点を失い、同点に追いつかれ降板、初勝利は逃したが、続く、5月16日、国鉄戦(甲子園)ではリリーフで6回を投げ、1失点でプロ初勝利を挙げた。
続く19日の洋松戦(西京極)、27日の中日戦(中日)でも先発で勝利を挙げ、初登板から1か月で3勝を荒稼ぎした。
その後は先発しても勝ちに見放されていたが、負けもつかず、8月8日の国鉄戦(川崎)ではリリーフで無傷の4勝目を挙げる。
10月14日の国鉄戦(後楽園)、先発して6回途中まで2失点に抑え、無傷の5勝目を挙げると、前年1953年の小山正明が持つ球団2位タイ記録に並んだ。
この年は結局、26試合に登板したが、5勝0敗、防御率3.11と、無敗のままシーズンを終えた。
翌年1955年、首脳陣の期待を背負って、背番号「50」から「11」に変更となるが、わずか5試合の登板に留まり、オフに退団した。
つまり、山中は投手として31試合に登板、無敗のまま、18歳でプロ野球の世界を去った。NPBで通算5勝以上を挙げて、無敗のまま引退したのは、前年1953年のレオ・カイリー(毎日オリオンズ、通算6勝0敗)に続き、山中が2人目、日本人では初めてとなり、その後も山中を含め、4人しかいない。
その翌年から、社会人野球の東洋レーヨンに入団し、外野手に転向して、都市対抗野球出場の常連となった。
田宮謙次郎 4連勝(1949年)
田宮謙次郎は、日本大学に入学、東都大学リーグでは投打の二刀流で活躍、首位打者を獲得した。タイガースには投手として入団後、1949年の開幕から一軍でマウンドに上がった。
4月12日に東急戦(西宮)でプロ初登板・初先発し、4回までホームラン1本の被安打1、1失点に抑えるが勝敗はつかず、4月19日に中日戦(甲子園)にリリーフ登板して、初勝利を挙げた。その後、5月4日の巨人戦では延長10回途中まで投げ、4失点ながら、無傷の4連勝を挙げた。タイガースの新人投手が巨人戦初登板で勝利を挙げたのは、田宮が最初である。
先発に復帰した7月2日、大映スターズ戦では、8回まで1失点、2点リードしながら、9回に相手先発のビクトル・スタルヒンの同点タイムリーで追いつかれ、3点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫し、連勝は「4」で止まった。その後、田宮は打ち込まれる場面も増えたが、そのシーズン、新人ながら34試合に登板、うち先発した20試合で8完投し、11勝(7敗)を挙げた。
田宮はプロ2年目の1950年3月16日、国鉄戦(倉敷)では、9回2死までパーフェクトに抑えながら、27人目の打者が打ったサードゴロを、三塁手の藤村富美男が判断ミスで内野安打にしてしまい、日本プロ野球最初の完全試合を逃している。
その後、故障により野手への転向を試み、1952年の開幕戦では「6番・ライト」で先発出場、1958年には打率.320で首位打者に輝き、新人・長嶋茂雄の三冠王を阻止した。
翌1959年から大毎に移籍、1960年に打率で同僚の榎本喜八の後塵を拝して2位に終わり、NPB史上初の「両リーグで首位打者」の快挙は逃したが、コンスタントに打率上位に食い込んで「ミサイル打線」の一翼を担い、通算1427安打、106本塁打という成績を残し、1963年オフに35歳で引退した。
小山正明 5連勝(1953年)
小山正明は野球では無名校である兵庫県立高砂高校を卒業後、タイガースにテスト生として入団した。小山の月給は当初、球団の女子事務員の月給よりも安かったが、打撃投手で制球を磨いて、1年目に早くも二軍で頭角を現した。
小山は1953年のシーズン終盤の8月26日に広島戦(大阪)にリリーフでプロ初登板、2回1/3を無安打・無失点に抑える。プロ4試合目、9月4日に広島戦(日生)で初先発すると、9回を投げて2失点で、プロ初勝利を完投で飾った。そこから9月だけで無傷の5勝(うち3完投)を挙げた。
10月2日の名古屋戦(中日)で、球団新人タイ記録となる6連勝を懸けて先発したが、3回途中、2失点で降板して敗戦投手となり、景浦将の開幕6連勝に並ぶことができなかった。しかし、小山は8月下旬からのチーム39試合のうち16試合に登板、うち10試合に先発、5勝1敗、防御率3.41という成績を挙げた。
翌年から小山は二桁勝利を挙げ、「針の穴を通すような制球」「投げる精密機械」などの異名を取り、1959年に村山実の入団後はダブルエースとして活躍した。特に1958年から3年連続シーズン20勝以上、1962年には5試合連続完封を含む27勝を挙げて、最多勝の村山を抑えて沢村賞も受賞し、リーグ優勝に貢献。
1963年オフに大毎の山内一弘との「世紀のトレード」で移籍したが、移籍直後の1964年にいきなり30勝を挙げ、そこから自身2度目の3年連続シーズン20勝以上をマーク。1973年に引退するまでにNPB歴代3位となる通算320勝(大阪・阪神:176勝、東京・ロッテ:140勝、大洋:4勝)を挙げた。
景浦将 6連勝(1936年秋) *デビューから7連勝(1936年秋~1937年春)
タイガースの新人投手でもっとも長い連勝を記録したのは、1936年の景浦将である。
1936年は日本職業野球が始まった年であり、誰もがプロとしては新人といえるが、景浦は入団当時、20歳で、立教大学を中退して入団しているため、実質、「新人」と扱ってよいだろう。
景浦将は1915年7月、愛媛県松山市に生まれた。野球の強豪、松山商業に入学するが、当初は剣道部に所属し、野球部に途中入部すると投打で頭角を現した。
1931年の春の甲子園ではベスト8、夏の甲子園ではベスト4。1932年の春の甲子園では優勝、その夏の甲子園でも連覇を狙ったが、決勝で中京商業にサヨナラ負けを喫した。景浦はその後、立教大学に進み、東京六大学野球リーグで投打に活躍していたが、1936年2月26日、母校・松山商業の先輩で尊敬する森茂雄が新設される大阪タイガースの初代監督に就任したことを本人から知らされると、景浦は心を決めた(その日、二・二六事件が勃発していた)。その2日後に大阪タイガースに入団、立教大学を中退した。景浦は背番号「6」を着けた。
1936年の春季、第1回日本職業野球リーグ戦・甲子園大会で、タイガース初の公式戦とった4月29日の開幕戦、名古屋金鯱軍戦で景浦は「5番・サード」で先発出場した。3打数無安打(1四球)に終わったが、翌日の名古屋戦では同じく「5番・サード」でプロ初安打を含む5打数3安打、3打点と大活躍、そして、開幕から4試合目の5月3日、大東京戦では前日の松木謙治郎に代わって、20歳という若さで「4番・サード」に座った。初の「4番」で4打数2安打、2打点と勝利に貢献した。
第1回日本職業野球リーグ戦・宝塚大会が開かれた5月24日、阪急戦(宝塚球場)では、景浦は「4番・サード」で先発出場しながら、先発の御園生崇男、2番手の若林忠志が大量リードを許したこともあり、7回1死から3番手としてプロ初登板を果たした。
(2回2/3を投げて、打者11人に対し、被安打3、1奪三振、2四球、失点・自責点は不明)
景浦は1936年の秋季になると、31試合すべてに先発出場しながら、本格的に投手としても先発マウンドに上がった。9月23日のセネタース戦(甲子園)では、「6番・ピッチャー」で初めて先発登板した。被安打1、四死球3という記録が残っているが、途中で藤村富美男のリリーフを仰ぎ、勝ち負けはつかなかった(イニング数、自責点などは不明)。
その後も、7試合に先発したが、打順はすべて「5番・ピッチャー」で、8試合に登板、6勝0敗、防御率0.79で、職業野球初の最優秀防御率のタイトルを獲得した。巨人のエース、沢村栄治の1.05を凌いでの受賞だった(沢村は15試合登板、13勝2敗で、最初の最多勝のタイトルを獲得)。
タイガースは景浦、ジャイアンツは沢村の活躍で共に首位で並んだ。
1936年12月に東京・洲崎球場で行われた優勝決定戦は真冬の寒さの中、行われた。
景浦は「5番・ピッチャー」で先発、巨人先発の沢村栄治と投げ合った。初戦、タイガースが0-4の劣勢で迎えた4回に景浦自らが沢村から特大の3ランホームランを放って追撃したが、タイガースは沢村の前に11奪三振を喫し、あと一歩、及ばなかった。
2戦目、タイガースは2連投の沢村からエラーがらみで5点を奪い勝利した。
1勝1敗で迎えた第3戦、雨模様の中で景浦は中1日で先発したが、沢村は前日の登板で右肩を痛め、この日は試合途中から3連投のマウンドに上がった。タイガースが2-4で迎えた8回、一発が出れば同点という場面で再び景浦と沢村の対決となった。沢村は景浦を2球で追い込むと、最後はストレートで景浦を3球三振に斬って取った。
第3戦は巨人がそのまま勝利し、勝負の軍配は巨人に上がったが、いまに続く阪神と巨人の伝統の一戦は、景浦将と沢村栄治のライバル対決から始まっていたといってもよい。
景浦は1937年の春季にも3月26日の開幕戦のイーグルス戦(下井草)に「5番・ピッチャー」で先発登板すると、4回を投げて、被安打2、2奪三振、5四球と荒れたが、無失点に抑え、勝利投手となった。4月1日のセネタース戦(下井草)では9回1死からリリーフで登板するも、延長12回に1-2でサヨナラ負けし、プロ初の敗戦投手となり、デビューからの連勝は「7」でストップした。その後も、外野手(ライト)と投手の「二刀流」を続け、打っては打率.289、2本塁打、47打点で打点王、投げても22試合(うち先発7試合)で11勝5敗、防御率0.93(2位)と無双した。防御率トップは沢村栄治の0.81(30試合、24勝4敗)で、景浦に対して前年の雪辱を果たしている。
特に5月9日の東京セネタース戦(下井草)では、景浦は自身初めて「4番・ピッチャー」で先発登板し、打つほうはノーヒットに終わったが、投げるほうでは9回を投げ切って1-0で完封勝利を挙げた。その後も6月2日と6月9日のセネタース戦にも「4番・ピッチャー」で先発し、いずれも勝利投手になっている。
1937年の秋季には、打率.333で首位打者を獲得。投手としての登板こそ8試合に減ったが4勝1敗、防御率1.44で、大阪タイガース初優勝に投打で貢献した。
景浦は1939年に招集を受け、戦地に赴き、生還すると、1943年に阪神に復帰した。しかし、戦地で手りゅう弾の投げ過ぎにより右肩を壊し、かつての剛腕・強打は鳴りを潜め、主に一塁手に専念したが、52試合に出場して、打率.216、本塁打3本に終わった。
景浦は1944年に2度目の応招があり、1945年5月に29歳で戦死した。ライバルの沢村栄治も前年12月に戦死しており、二人の対決は二度と見ることができなかった。
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