広島・森下暢仁、「マダックス&猛打賞」は「鉄腕」稲尾和久以来の快挙

広島東洋カープの森下暢仁が「投打二刀流」の才能をいかんなく発揮している。

森下暢仁、自身初の「マダックス」達成は「猛打賞」のおまけつき

6月25日、マツダスタジアムでの対東京ヤクルトスワローズ戦で、今季10試合目の先発登板した森下は9回を投げ切り、被安打2、4奪三振、無四球、無失点に抑え、広島が3-0で勝利し、今季6勝目(3敗)を挙げた。
91球での完封勝利のため、自身初の「マダックス」達成となった。

森下は打つほうでも、3回、1死走者なしで、ライト前ヒット、5回裏も1死走者なしで、センター前ヒット、6回裏にも2死一塁の場面で、ライト前ヒットを放ち、いずれもヤクルト先発の高橋奎二から1試合3安打、今季2度目となる「猛打賞」を記録した。
森下はこれで今季の打撃成績を21打数9安打、打率.429、出塁率.455、OPS.931に上げた。


「猛打賞で完封勝利」はヤクルト・中澤雅人以来、14年ぶり


NPB公式戦で、投手が1試合3安打(猛打賞)を放ち、かつ完封勝利を挙げたのは、2010年4月23日、横浜スタジアムでの東京ヤクルトスワローズ対横浜ベイスターズ戦で、ヤクルト先発の中澤雅人が横浜打線を4安打に封じて完封勝利を挙げ、かつ自身も4打数3安打をマークして以来、14年ぶり。

「猛打賞」+「マダックス」達成は、「鉄腕」稲尾和久の「現役最後の完封勝利」以来、56年ぶり


森下は91球で完封勝利を挙げたが、NPBの公式戦で、投手が「猛打賞」かつ「1試合100球未満の完封勝利」を挙げたのは、1968年9月1日、西鉄ライオンズ対近鉄バファローズ戦で、西鉄先発の稲尾和久が、本塁打含む3安打を放ち、かつ、投げては被安打2、6奪三振、無四球、99球で完封勝利をして以来、56年ぶりとなる。

ちなみに、このとき、稲尾は投手生命の晩年に差し掛かっており、これが通算275勝目、最後の完投勝利、かつ完封勝利(43度目)であり、翌1969年に現役最後となる通算276勝目を挙げて、現役を引退している。


投手でシーズン2度の「猛打賞」は2002年のマット・ムーア以来、日本人では1985年の川口和久以来


NPBの公式戦で、投手がシーズン2度の「猛打賞」は2002年に阪神タイガースのマット・ムーアが4月6日、明治神宮野球場でのヤクルトスワローズ戦(9回1失点完投勝利)と8月14日、札幌ドームでの横浜ベイスターズ戦(8回1失点で勝利)で記録して以来、22年ぶり。

日本人投手に限ると、1985年に広島の川口和久が、7月5日、阪神甲子園球場での阪神戦(9回4失点完投勝利)と9月29日、広島市民球場での中日戦(9回被安打3、無失点、完封勝利)で記録して以来、39年ぶりとなる。

稲尾和久と森下暢仁の共通点は?


「鉄腕」稲尾和久と森下暢仁の間には一つの共通点がある。
稲尾は1937年6月生まれ、森下は1997年8月生まれと、40歳の差があるが、二人の共通点は大分県出身であることだ。

稲尾和久は大分県内2番目の都市である別府市出身、森下は県庁所在地の大分市出身である。

稲尾は大分県立別府緑丘高等学校(現在の大分県立芸術緑丘高等学校)、森下は県立大分商業の出身である。

稲尾が卒業した「別府緑丘高校」は当初より音楽・芸術の専門教育を目的に設立され、開校当初は、校名にもあるように校舎は別府市にあった。
その後、1965年に「大分県立芸術文化短期大学」の附属高校となり、「大分県立芸術短期大学付属緑丘高等学校」と改称、1980年に大分市に移転、その後、1992年に「大分県立芸術文化短期大学附属緑丘高等学校」、2005年には「大分県立芸術緑丘高等学校」と改称されている。

稲尾の母校が大分市内に移転したことで、森下の母校である大分商業とは大分市内を流れる大分川を隔てて、お互いにクルマで15分で行ける位置にある。

稲尾和久と森下暢仁、もう一つの共通点は

もう一つの共通点は、新人で「防御率1点台」、「新人王」を獲得したことだ。

稲尾和久はルーキーイヤーの1956年、61試合に登板、うち22試合に先発、21勝6敗、防御率1.06で、パ・リーグの「最優秀防御率」のタイトルと「新人王」を受賞した。

NPBが2リーグ分立した1950年以降、新人が規定投球回をクリアし、防御率2.00未満を記録したのは、宅和本司以来、稲尾が2人目である。

その後、村山実、堀本律夫、権藤博、稲川誠、堀内恒夫、藤田学、2012年に森下と同じ明治大学の先輩である野村祐輔がクリアした。

2020年に、森下暢仁が18試合に登板、10勝3敗、防御率1.91をマークして、10人目の達成となり、セ・リーグの新人王を受賞した。

なお、この10人の中で、新人王を逃したのは村山実稲川誠で、シーズン二桁勝利を逃したのは、野村祐輔だけである。

稲尾和久、日本シリーズ初のサヨナラホームラン

稲尾は打撃もよく、プロ3年目の1958年には打率.236、4本塁打、14打点をマークしている。
通算でも220安打、17本塁打を放っている。

圧巻はやはり、「巌流島の決戦」と言われた1958年の日本シリーズ、巨人との死闘で生まれた、稲尾の一打だろう。

西鉄が地元・平和台球場で1勝3敗と剣が峰に立たたされて迎えた第5戦、初回、巨人に3点を先制され、4回途中から稲尾がリリーフでマウンドに上がる。
7回裏、中西太が2ラン本塁打を放って追い上げ、9回裏、2死3塁から関口清治が起死回生となる同点タイムリーを放つ。
10回裏、打席に立った稲尾はレフトスタンドに叩き込み、自らサヨナラ本塁打を放った。
日本シリーズでのサヨナラ本塁打は稲尾が初である。
後楽園に舞台を移して続く第6戦、西鉄の先発はまたしても稲尾で、見事に完封勝利を飾った。
そして、3勝3敗で迎えた第7戦も稲尾が先発、完投勝利を収め、西鉄は3連敗から4連勝という奇跡的な優勝を収め、西鉄は日本シリーズ3連覇。
シリーズMVPにはもちろん、7試合中、6試合に登板、最後は4連投・4連勝を挙げた稲尾が選出された。

「神様・仏様・稲尾様」と謳われたゆえんである。

今後、森下も、重要な試合でマウンドに上がり、しかも、ファンの記憶に残る場面で、打者としても一打を放てるか、注目したい。


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