【1955年4月13日】開幕12連敗を喫したトンボ・ユニオンズを完封で救ったスタルヒン



阪神タイガース、NPB史上6チーム目の開幕8連敗

阪神タイガースが4月2日、東京ドームで行われた読売ジャイアンツ戦に4-5で敗れ、開幕戦から8連敗を喫した。

①3月25日  ヤクルト10-8
②3月26日  ヤクルト6-0
③3月27日  ヤクルト4-0
④3月29日  広島3-2
⑤3月30日  広島8-3
⑥3月31日  広島3-2
⑦4月1日 巨人6-5
⑧4月2日 巨人5-4

NPBにおける開幕戦からの連敗記録を見てみると、8連敗以上を喫したチームは

1955年    トンボ・ユニオンズ    12連敗
1961年    阪急ブレーブス    10連敗
1979年    西武ライオンズ    12連敗(うち2引き分けを挟む)
1979年    ヤクルトスワローズ    8連敗(うち1引き分けを挟む)
2002年    千葉ロッテマリーンズ    11連敗
2022年  阪神タイガース 8連敗

阪神で6チーム目であるが、セ・リーグではワーストタイ、引き分けを挟まなければワースト新記録となった。

そして、NPBで開幕から引分け無しの12連敗というワースト記録を持つのは、1955年のトンボユニオンズである。

トンボ・ユニオンズとは?


トンボ・ユニオンズは前年の1954年、高橋ユニオンズとして誕生した。
「高橋」というのは、「ビール王」と称された大日本麦酒元社長・高橋龍太郎のことで、個人で出資して高橋球団を設立した。
もともと当時、パ・リーグが7チームあり、奇数では試合が組むことが難しいことから、当時のパ・リーグ総裁でもあった大映スターズのオーナー・永田雅一がもう一つ、チームを増やすべく画策し、戦前、後楽園イーグルスのオーナーを務めたこともある財界人の高橋に白羽の矢が立ったものである。
新たな球団の経営は困難が予想されたが、野球が好きな高橋は断り切れず、引き受けた。
「ユニオンズ」という名称は、高橋が社長を務めていた大日本麦酒の主力商品だった「ユニオンビール」に由来している。
本拠地は川崎球場に決まり、初代監督には、「球界彦佐」と謳われた浜崎真二が招聘された。
53歳の浜崎は阪急ブレーブスの監督を7年、務めていたが、前年2位でリーグ優勝を逃したことで辞任したばかりだった。
浜崎は小柄だが慶應義塾大学野球部を経て、ノンプロで投手として活躍し、戦後、1947年に45歳で阪急に投手兼任総監督として入団、プロ野球の世界に入ると、48歳で投手としてマウンドに上がり、勝利投手になったこともある。

パ・リーグの都合もあり設立された高橋ユニオンズだが、他のチームから選手の拠出を受けるはずが、高橋ユニオンズに集まった選手たちは旬を過ぎた選手や、問題児ばかりだったという。
唯一、異彩を放っていたのが、大投手・ビクトル・スタルヒンである。
スタルヒンは戦前、東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)のエースとして君臨したが、戦後は巨人時代の恩師である藤本定義を頼り、藤本が監督を務めたパシフィック、金星スターズと渡り歩いていた。
通算286勝(その後、288勝に訂正)は当時、プロ野球最多である。
37歳のスタルヒンは藤本の元を離れ、高橋ユニオンズの第1号選手として契約した。

新生・高橋ユニオンズ、1954年にいきなり開幕6連敗



浜崎率いる高橋ユニオンズは1954年のシーズン開幕を迎えたが、戦力不足は否めず、開幕からいきなり6連敗を喫した。
外国人捕手のサル・レッカがチームトップの23本塁打を放った他、かつて慶應義塾大学野球部で早慶戦のスターだった笠原和夫が南海から移籍して打率.290と復活し、黒田一博(元広島カープの黒田博樹の実父)も外野手のレギュラーを張ったが、貧打にあえいだ。
投手陣は頼みのスタルヒンは8勝どまりだったが、滝良彦が16勝、ベテランの野村武史が15勝を挙げる踏ん張りもあり、結局、53勝84敗3引分けで8チーム中、6位と健闘した。

1955年のトンボ・ユニオンズ、開幕から12連敗、37歳のスタルヒンが止める


高橋ユニオンズは創立2年目を迎え、トンボ鉛筆をスポンサーに迎え、「トンボ・ユニオンズ」と改称した。
そして、1955年のシーズンを迎えたが、やはり開幕から連敗街道をまっしぐらで、4月6日には開幕7連敗で、前年の自らの記録を更新し、前年、広島カープがつくった開幕7連敗に並んだ。
その後も負け続け、4月13日、駒沢球場で行われた大映スターズとのダブルヘッダーの第1試合、3-6で敗れ、ついに開幕12戦で12連敗となった。
第2試合の開始20分前、前日、リリーフで登板していたスタルヒンが浜崎監督に「先発させてくれ」と登板を直訴した。
スタルヒンは先発マウンドに上がると、老獪な投球で大映打線を翻弄し、1-0と1点のリードを守って最終回へ。
9回表、トンボ打線は貴重な追加点を挙げると、スタルヒンは9回裏のマウンドに上がって抑え、2-0で逃げ切った。
スタルヒンは被安打5、7奪三振で完封勝利を挙げた。
そして、この勝利がスタルヒンにとって、自身通算295勝目(後に訂正され297勝目)、83度目の完封勝利だった(そして、スタルヒンにとってこれが最後の完封勝利となったが、通算83完封はNPB最多である。400勝投手の金田正一は通算82完封と迫ったが、並ぶことはできなかった)
トンボはスタルヒンの奮闘もあり、やっとの思いで、開幕からの連敗にピリオドを打った。
一方、山本一人(鶴岡一人)率いる南海ホークスは開幕から10連勝を飾り、対照的な船出となった。

開幕から躓いたユニオンズはその後も、投手コーチの上林繁次郎がシーズン中にもかかわらず、船橋市議会議員選挙に立候補し、ベテランエースの野村が「仮病」を使って、上林の選挙応援でチームを離れるなど、前代未聞のトラブルが頻発した(上林は当選後、コーチを辞任、政治活動に専念した)。
浜崎監督曰く、弱小チームが故に、審判からもあからさまに不利なジャッジを受けることも度々だったという。
浜崎自身の情熱も次第に失せていき、チームの再建はもはや困難となった。

スタルヒン、史上初の300勝達成も、浜崎監督が辞任、制裁金没収



浜崎監督はほとんど唯一の関心事となったスタルヒンの通算300勝達成に心血を注いだ。
9月4日、京都・西京極球場で行われた大映スターズ戦でスタルヒンは300勝を懸けて先発登板した。
大映スターズの監督は、スタルヒンの終生の恩師である藤本定義であった。
浜崎監督は野手たちに発破を懸けると、トンボ打線は序盤で7点をリードした。
スタルヒンは大量リードをバックに飄々と投げ、4点を失ったものの、最後まで投げ抜き、トンボは7-4で大映を下した。
そして、スタルヒンは日本プロ野球界初となる通算300勝をマークした(その後、公式記録が訂正され、スタルヒンの通算300勝目は同年7月28日の近鉄バファロー戦(川崎球場)となった)。
浜崎監督はそれで安堵したのか、9月19日、シーズン終了を待たず、監督辞任を発表した。125試合、35勝89敗1引分け、勝率.282と散々な成績だった。
代行監督は笠原和夫が選手兼任で務めたが、結局、141試合を戦って、42勝98敗1引分け、勝率.300に終わった。
さらに追い打ちをかけるように、パ・リーグは勝率.350を下回ったチームから制裁金500万円を没収すると事前に申し合わせており、トンボはその憂き目にあった。
39歳のスタルヒンは7勝21敗、防御率3.89で、現役続行を望みながらも、通算303勝を手土産に引退に追い込まれた。
トンボ鉛筆は1年限りでスポンサーを離れ、「高橋ユニオンズ」に戻り、監督は笠原が選手兼任で正式に就任した。
新戦力として慶應義塾大学から笠原の後輩にあたる佐々木信也が入団した。
佐々木は神奈川県立湘南高校の野球部で夏の甲子園に初出場で初優勝するという偉業に貢献し、慶應義塾大学に進むと、早慶戦のスターとなりキャプテンも務めた人気者であった。

高橋ユニオンズ、1956年の最後のシーズンとスタルヒンの急死



1956年のシーズンが開幕すると、笠原率いる高橋ユニオンズは今度は開幕直後に12連敗を喫し、5月にも再び12連敗に沈むなど、散々なチーム状況は続いた。
あまりの弱さにファンの心も離れ、本拠地の川崎球場は毎試合、閑古鳥が鳴き、チケットの売上は1試合で「数十枚」ほどであったという。
結局、52勝98敗4分で8位、最下位に終わった。
しかも、シーズン最終試合では、負ければ勝率.350を切ることになり、2年連続で制裁金を課されるため、対戦相手の毎日オリオンズが勝負に「手心を加える」事態となり、4-3で辛勝してようやく制裁金をまぬかれる有り様だった。
数少ない光明は、新人の佐々木信也がセカンドのレギュラーで全154試合に出場し、打率.289、180安打を放ち、ベストナインに選ばれたことだった。

結局、高橋ユニオンズは翌1957年、2月26日に大映スターズに吸収合併され、「大映ユニオンズ」となった。
キャンプ地の岡山で、「高橋ユニオンズ解散式」が行われたという。
高橋ユニオンズは3年間でその存在を終え、プロ野球から消えていったのである。

しかも、トンボユニオンズの開幕12連敗を、自身最後の完封勝利で止めたスタルヒンは、ユニオンズの解散を知ることはなかった。
同年1月に都内で自ら運転する自動車で交通事故に遭い、この世を去ったからである。
40歳という若さだった。

尚、大映ユニオンズは翌1958年3月10日に毎日オリオンズに吸収合併され、毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)となった。

参考文献

長谷川晶一「最弱球団 高橋ユニオンズ青春記」


浜崎真二「48歳の青春―球界彦左自伝」










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