【1988年10月15日】 南海ホークス、「さようなら大阪球場」



大阪球場のラストゲーム、相手は逆転優勝を狙う6連勝中の近鉄

いまから33年前の今日、1989年10月15日の昼下がり、晴天に恵まれた大阪球場には3万2000人の観衆が詰めかけていた。そして、球場の周辺を、1万人のファンが取り囲んだ。上空には大阪球場を空撮するヘリコプターが飛んでいた。

南海ホークスが本拠地・大阪球場(旧・大阪スタヂアム)で、最後の試合を迎えていた。このシーズンオフに、小売業大手のダイエーへの球団売却が決まっていたのである。
一方、仰木彬監督率いる近鉄バファローズは、この日まで6連勝し、首位の西武ライオンズを猛迫していた。しかしながら、13日間で15連戦という過酷な日程を消化しなければならず、この日はその8日目であった。
バファローズは、本拠地を同じくした大阪から去り行くホークスといえども、勝利という花を持たすわけにはいかなかった。1980年以来のリーグ優勝が手の届く範囲にあるのだ。

午後2時、プレイボール

午後2時、南海の先発は西川佳明、近鉄の先発は左腕の小野和義で始まったこの試合は、近鉄が1回表に5番の鈴木貴久のタイムリーで先制すると、その裏、南海が3番の佐々木誠の15号ソロホームランですぐに1点を返して、1-1の同点にする。2回表、近鉄が今度は1番の大石大二郎のタイムリーで2-1と勝ち越した。

4回裏、門田博光の第2打席

南海は4回裏、先頭の佐々木誠が四球で出塁すると、ここで左打席に4番の門田博光が入る。
門田はこの年、40歳のシーズンを迎えたが、この日まで打率.313、44本塁打、打点も124と、リーグ二冠王をほぼ確定させていた。

門田は左打席でクローズド気味のスタンスで構えると、初球からフルスイング、だが、バックネット席に飛び込むファウル。
2球目の内角高めをスイングすると、打球はライト前に転がる。
これで一死一、二塁。続く5番の高柳は空振り三振に倒れ、6番の岸川はサードゴロ。南海は勝ち越しのチャンスを逃した。

5回裏、南海の攻撃は1死後、9番の小川史の代打、畠山準が打席に立った。畠山は徳島・池田高校で夏の甲子園に出場、優勝投手で1982年にドラフト1位で指名されたが、打撃を買われ、打者に転向し、この年から外野手として一軍に再昇格していた。畠山はセンター前ヒットを放ち、無死一、三塁とチャンスを広げた。
1番の河埜敬幸に対して、小野が2ボールから投じた3球目、内角高めへ。河埜はボールをよけながらバットで振り払うように放った打球はショートゴロ。近鉄ショートの真喜志康永が捕球態勢に入ったが、その瞬間、地面で大きく打球が跳ね、グラブをかすめてセンターに転々とする間に、ホームを駆け抜けた。
さらに2番の湯上谷宏がレフト前ヒットを放ち、畠山の代走、森脇浩司がホームを駆け抜けて、3-2。ホークスが勝ち越した。

なおも一死一、二塁の場面で、3番の佐々木誠はピッチャーゴロ、1-4-3と渡ったが、俊足の佐々木が素早く一塁を駆け抜け、二死一、三塁。

5回裏、門田の第3打席


続く打者は、4番の門田。願ってもないチャンス。一方の小野は大ピンチ。
大いに沸く大阪球場だが、門田に対し、小野は3つ続けてボールを投じた。
4球目、門田はやや高めのボール球をフルスイングしたが、バックネット席へのファウル。5球目は内角高めに外れ、門田は一塁に歩きかけたが、判定はストライク。これで3-2のフルカウント。
6球目、高めのボールを門田はスイングしたが、これもバックネット方向に打ち上げたフライとなり、フェンス間際で捕手の山下和彦がキャッチした。
門田のキャッチャーへのファウルフライで南海は追加点のチャンスを逃した。

近鉄ナイン、驚異の粘りで三度び同点に


試合中、三塁側のベンチに陣取る近鉄ナインと仰木監督には、疲労困憊の身体からさらに体力を奪うかのように西日が照り付けていた。
だが、逆転優勝を狙う近鉄は粘りに粘る。
近鉄は6回表に南海先発の西川からベン・オグビーがソロホームランを放ち、3-3。再び同点に追いつく。西川は勝ち星を逃し、マウンドを2番手の山内和宏に譲った。

南海は7回裏、近鉄先発の小野を攻め立てると、近鉄ベンチは2番手の加藤哲郎にスイッチ。だが、2番の湯上谷がこの日、2本目となるタイムリー安打を放ち、また4-3と勝ち越した。
8回表、杉浦監督は満を持して、リリーフエースの井上祐二をマウンドに送り込む。井上はこの年、7勝20セーブを挙げていた。
ところが、今度は近鉄の5番・鈴木貴久が井上祐二を捕え、19号ソロホームランを放った。これで4-4。
観客席がすりばち状に建てられた大阪球場はため息で充満した。

4-4の同点で迎えた8回裏、門田の第4打席

8回裏、南海の攻撃、先頭は4番の門田博光。門田にとってこれが、この打席が南海ホークスのユニフォームを着て最後の打席になるかもしれなかった。
近鉄の仰木監督は、前の回から登板していた左の石本貴昭を再びマウンドに送った。
だが、これも誤算だった。
石本は門田に対してストライクゾーンでは勝負できなかった。
それもそのはず、門田は石本に対して13打数6安打、2本塁打。
石本が門田に投じたボールが3つ外れた時、大阪球場からはブーイングにも似た悲鳴とも怒声ともつかない騒音がこだまする。
4つ目のボールで、門田はゆっくりと一塁へ歩き出した。
だが、これが貴重な勝ち越しのランナーになった。

8回裏、高卒5年目・岸川勝也、惜別のアーチ


続く、5番・高柳秀樹は初球を打ち上げ、レフトフライに倒れた。
6番・岸川勝也が右打席に入ると、岸川は高卒でホークスに入団してプロ5年目、夏からようやく一軍に定着し、キャリアハイとなる6本塁打を放っていた。
再び近鉄ベンチは動く。仰木監督は新人左腕の木下文信にスイッチした。
近鉄ブルペンにはストッパーの右腕、吉井理人も準備していた。
結果的にこれが誤算となった。
木下が様子を見るかのように、最初に投じた緩いカーブが真ん中に入ると、岸川が振り下抜いたバットから快音が響いた。打球はレフトスタンド前列に飛び込む。
6-4。大阪球場はこの日いちばんの歓喜に包まれた。
テレビ中継のゲストに呼ばれていた、漫画家の水島新司も、岸川の打球がスタンドに飛び込んでから、岸川がダイヤモンドを一周する間、実況アナウンサーの声をかき消すほどの奇声を発していた。

9回表二死、バファローズの代打・新井宏昌が打席へ

ホークスは9回も井上がマウンドに向かった。
これまで2度、追いついた近鉄も2死となり、二番の新井宏昌が左打席に入る。奇しくも、新井も1974年に南海にドラフト2位で指名され、弱小期のホークスを支えたバットマンであった。
2ストライクに追い込まれた新井のバットが力無く、空を切ると、それを合図に、薄暮の空に虹を架けるように、色とりどりの無数の紙テープが投げ込まれた。
6-4、南海ホークスは本拠地・大阪球場でのラストゲームを白星で飾った。

大阪球場での最後のヒーローインタビューには、惜別の一発を放った岸川が選ばれた。

仰木彬から杉浦忠へ花束

その後、スコアボードには、白い文字で「さようなら南海ホークス」と掲げられた。照明塔には灯りが灯った。

セレモニーに先立ち、杉浦監督を筆頭に、コーチ、選手達がグラウンドのマウンド後方に整列した。

敵将の仰木彬が花束を持って、マウンド後方の杉浦のほうに向かう。
仰木は笑みをたたえて、杉浦に花束を手渡し、その労を労うかのように、言葉をかけた。
仰木率いる近鉄バファローズはこの4日後、リーグ優勝を懸けてロッテオリオンズとのダブルヘッダー「10・19」に臨むことになる。
皮肉にもこの日のホークスへの1敗が大きく尾を引いたと言っても過言ではない。

背広姿の鶴岡一人、惜別の挨拶


南海ホークスで長く、選手そして指揮官として君臨した鶴岡一人が背広姿でホームベース付近に歩み寄った。鶴岡は1968年にホークスの監督を退任したが、この時、まだ御年63歳であった。
鶴岡はマイクに向かって、観客に向けてこう語りかけた。

「私は昭和14年(1939年)に南海に入りまして、まだ戦後、この大阪球場と球団には長いこと、お世話になりました。」
「おかげでご覧にように、元気にいままで、おまんまを食べさせていただきました。」
「これを最後に、南海ホークスはダイエーホークスになりますが、来年、(関西に本拠地を持つ球団である)阪急ならびに近鉄と戦うと思います。そのときは今年に変わらず、どうぞ、ダイエーホークスを応援してやってください。どうもありがとうございました。」

杉浦忠監督の挨拶「いってまいります」

続いて、最後の指揮官となった杉浦忠がマイクの前に立った。
トランぺッターがニニ・ロッソの「夜空のトランペット」を奏でた。
大阪球場で試合終了後に流れる曲だった。
杉浦は帽子を取って、静かにこう語り始めた。

「本当に長い間、最後まで温かいご声援、本当にありがとうございます。」
「今シーズンは出足の7連敗というものが最後まで取り返せずに、結局、Bクラスに終わったしまったことを深くお詫び申し上げます。」
「さて、来年より、平和台球場を本拠地としてホークスが生きていくわけですけど、まあ、長嶋(茂雄)君が引退したときに『読売巨人軍は(永久に)不滅です』という言葉を使ったわけですけど、(南海)ホークスは不滅です。」
「ところを福岡に移しますけれども、今後とも、ますますのご声援、お願いいたします。ありがとうございました。」

そして最後にこう付け加えた。

「いってまいります」

2代目球団歌「南海ホークスの歌」をバックにグラウンド一周


杉浦監督始め選手たちは、ホークス応援団から「応援団旗」を譲り渡されると、戦後、「野球小僧」のヒットで知られる歌手の灰田勝彦が歌う2代目球団歌、「南海ホークスの歌」が流れる中、杉浦監督、3人の選手たちが、その応援団旗の四隅を持ち、その後にコーチ、選手たちが連なって、グラウンドを一周した。

グラウンドを照らす太陽の
意気と力をこの胸に 
野球に生きて夢多き 
南海ホークスさあ行こう
ああ金色(こんじき)の 羽ばたきに
そらに鳴る鳴るひるがえる勝利の旗!
ホークス ホークス 南海ホークス

大阪球場のスコアボードに掲げられたホークスの球団旗がポールから降ろされた。
静寂の中、トランぺッターが奏でる「ホークスの歌」が流れた。
そのトランペットの音色を聞きながら、門田は必死にこみ上げる涙をこらえているようだった。
スコアボードには、「50年間ご声援ありがとう」というメッセージが浮かんだ。

大阪球場のグラウンドを去るホークス戦士たち


続いて、トランペッターが「蛍の光」を独奏する音色をバックに、ウグイス嬢がひとりひとりのコーチと選手の名前と背番号をアナウンスすると、一人一人がファンからの惜しみない声援にこたえながら、スタンドの四方に向かって、深々と礼をし、グラウンドを後にする。

選手の中で最後に残ったのは門田博光。
門田も脱帽し、スタンドに向かって、2回、静かに礼をすると、ベンチに歩を進めた。客席からはどこからともなく「かどた、かどた」という門田への惜別のシュプレヒコールが上がった。
40歳の門田は打率.311、44本塁打、123打点の二冠王に輝き、パ・リーグのMVPを掌中に納めた。

この日から4日後、10月19日、阪急ブレーブスが、オリエントリースへの球団売却を発表した。近鉄が「10・19」の第2試合を戦っているさなか、球界にもファンにも激震が走った。
門田は「福岡は遠すぎる」という理由で関西に留まり、新球団のオリックス・ブレーブスに移籍した(その後、1991年からダイエーに移籍、1992年オフに44歳で現役を退いた)。

そして、最後にウグイス嬢の声が響き渡る。

「杉浦忠監督、背番号71」

杉浦はマウンド上で両手を大きく広げて、スタンドに向き直り、360度、身体をゆっくり回転させた。
細身の右腕が下手から繰り出すボールに、パ・リーグの打者は翻弄されてきた。1959年の巨人との日本シリーズ4連投4連勝も、涙の御堂筋パレードも杉浦の鉄腕がもたらした。
髪は白くなったが、スリムな体型は現役時代のままだ。
「すぎうらー、すぎうらー」
その声に応えるように、杉浦はダグアウトまでゆっくりと歩を進めながら何度も何度も手を振った。

その表情は誇らしげで、でも、どこか寂しそうだった。

杉浦忠がベンチに姿を消した瞬間、南海ホークス50年の歴史に幕が下ろされた。

福岡ダイエーホークス誕生、初優勝を見届けた鶴岡一人の死

杉浦は「いってまいります」の言葉通り、福岡ダイエーホークス初代監督に就任した。だが、1989年のシーズン、4位、Bクラスに終わるとオフに監督を退いた。
ホークスがパ・リーグのペナントを再び奪取したのは4代目監督の王貞治の下、1999年のシーズンであり、福岡に移転して10年の月日を要した。
それに先立ち、大阪球場は1998年10月に閉場した。

鶴岡一人も、新生ホークスの初のリーグ優勝を見届けた後、2000年3月、この世を去った。享年83だった。

杉浦忠の死


2001年、杉浦忠はプロ野球OBが参加するマスターズリーグで、元阪神タイガースの吉田義男監督率いる大阪ロマンズのヘッドコーチに就任した。だが、11月11日、ロマンズの遠征先である札幌市のホテルで倒れ、鬼籍に入った。66歳の若さであった。

杉浦の告別式では、集まったホークスファンたちが南海ホークス球団旗を掲げ、球団歌「南海ホークスの歌」の合唱で見送られた。

グランド照らす太陽の
意気と力をこの胸に
野球に生きて夢多き
南海ホークスさあ行こう
ああ金色(こんじき)の 羽ばたきに
そらに鳴る鳴るひるがえる勝利の旗!
ホークス ホークス 南海ホークス

白球飛んで虹となり
砂塵おこって美技つづく
チームのためにプレイする
南海ホークス頑張ろう
ああ逞しい 羽ばたきに
そらに鳴る鳴る高らかに勝利の旗!
ホークス ホークス 南海ホークス

鍛えて強き日灼け顔
むつみ励まし燦然(さんぜん)と
世紀の野球花咲かす
南海ホークスいざ謳え
ああ大いなる 羽ばたきに
そらに鳴る鳴る晴れやかに勝利の旗!
ホークス ホークス 南海ホークス

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