NPBで「投手で背番号1」第1号は誰か?
3度の「三冠王」を獲得した落合博満さんが、自身のYoutubeチャンネルで、近鉄バファローズの大エース、鈴木啓示さんと対談した。
鈴木啓示さんは1965年のドラフト会議で、近鉄バファローズから2位指名を受け入団し、NPB歴代4位、左腕では2位となる通算317勝を挙げたレジェンドである。
ノーヒットノーランは2度記録し、先発投手として288勝、同一球団で開幕投手14度、無四球試合78試合はNPBで史上最多で、パ・リーグ最多の通算340完投、通算71完封、シーズン30完投、シーズン20勝以上8度(タイ)、10試合連続完投勝利、シーズン最多奪三振8度(タイ)など、数々の大記録を打ち立てた。
特に圧巻は31歳の1978年のシーズンで35試合に先発して、30完投、25勝、8完封、防御率2.02、178奪三振で「投手3冠(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振)」と最多完封は当時NPB史上8人目かつ最高齢、しかもパ・リーグ左腕では初の快挙を成し遂げた。
一方、通算被本塁打560本にいたってはMLBでも例がなく、「世界記録」とされる。
パ・リーグの先発左腕投手の通算最多記録のほとんどは鈴木さんが持っていると言ってよい。
1985年シーズン途中に現役引退するや、背番号「1」は近鉄の初代永久欠番となった。
鈴木啓示さんは近鉄に入団した当時、投手としては珍しい、「背番号1」を希望したエピソードを披露した。
しかしながら、鈴木啓示さんに水を差すようだが、NPBで投手で背番号1を着けた最初の選手は鈴木啓示さんではない。
NPBで「投手登録で背番号1」はこれまで31名、最多は阪神の5名
NPBで投手登録で「背番号1」を着けた選手は現在まで31名いるが、鈴木啓示はNPB史上17人目で、「ドラフト制度導入後初」となる「投手登録で背番号1」である。
現在、NPBの現役投手で背番号「1」を着けるのは、楽天に在籍した松井裕樹がオフにMLBのサンディエゴ・パドレスに移籍したため、ソフトバンクの風間球打のみである。
なお、NPBで現存する12球団で、投手登録で背番号「1」を着ける選手がもっとも多いのは阪神タイガースの5人で、逆にこれまで一人もいないのは、読売ジャイアンツと東京ヤクルトスワローズだけである。
巨人の「背番号1」といえば、王貞治が選手で入団してから監督を退任するまで長らく着けていた番号である。
王は早稲田実業高校でセンバツ甲子園で優勝投手となったが、巨人に入団した時に、背番号「1」を着けたものの、春季キャンプで野手に転向することが決まったため、投手扱いではない。
では、NPBで「投手登録で背番号1」を着けたのは誰だったのか?
1936年に職業野球の公式戦が開始したが、その初年度に2名が該当する。
1936年 名古屋軍(現・中日ドラゴンズ) 丹羽淑雄
丹羽淑雄は1914年生まれで、旧制・一宮中學校(現・愛知県立一宮高等学校)出身。同級生には桜井正三、森弘太郎(阪急に入団、1941年に史上8人目となるノーヒットノーランを達成)がいる。
職業野球の公式戦が開始された1936年(昭和11年)に名古屋軍に投手として入団、球団初代の「背番号1」を背負った。
しかし、丹羽は公式戦での登板はなかった(プレシーズン戦では投手としての登板記録があるという)。
唯一の公式戦出場は、1936年の連盟結成記念全日本野球選手権(夏季)の第1戦、7月16日、名古屋市昭和区八事の山本球場で行われた対名古屋金鯱軍戦において、9回、代走で出場したもので、第2回全日本野球選手権(秋季)開催中の10月29日付で名古屋軍を退団している。
残念ながら、その後の足取りを掴めていない。
1936年 阪急軍(現・オリックス・バファローズ)宮武三郎
「四国の麒麟児」、センバツで準優勝、夏の甲子園で優勝
宮武三郎は1907年、香川県高松市生まれ、高松商業学校(現・香川県立高松商業高等学校)の野球部では投打に渡る活躍で「四国の麒麟児」と称された。
高松商業は、本田竹蔵(のち浪華商業に転校、関西大学、大阪鉄道管理局)、井川喜代一(のち慶應義塾大学、東急フライヤーズ・コーチ)、水原茂(のち慶應義塾大学、東京巨人軍)らを擁し、宮武は彼らとともに、1925年(大正14年)春・夏、1926年(大正15年)春の甲子園に3度出場。
特に1925年(大正14年)春のセンバツ甲子園大会では「5番・投手兼一塁手」として出場して準優勝に貢献、同年夏の甲子園大会では「4番・投手兼一塁手」で全国制覇に大きく貢献した。
慶應最強時代、早慶戦の花になった「宮武・小川時代」
慶應義塾大学野球部に進み、1年生春の1927年(昭和2年)の東京六大学野球春季リーグ開幕戦となった4月29日、対東京帝国大学戦1回戦で先発投手としてマウンドに上がり、投げては6安打完封勝利、打っては東大のエース・東武雄から神宮球場で初となる柵越えの第1号となる本塁打を放つなど、3安打を記録し、まさに投打「二刀流」の活躍を見せた。
東京六大学野球リーグ戦で、1年生投手が開幕戦で勝利投手になるのは2007年に斎藤佑樹(早稲田大学)が記録するまで85年も現れなかった。
慶應のライバル、早稲田大学の野球部に和歌山中学時代にエースとして甲子園で覇者となった投手・小川正太郎が入学すると、「早稲田の至宝・小川」に対して宮武は「慶應の超ド級・宮武」と言われた。
そして、早慶戦は「宮武・小川時代」と称されるようになり、特に1929年春・秋の早慶戦は史上最高ともいえる関心を呼んだ。
結局、慶應は宮武が在籍している間、4度のリーグ優勝を果たし、1928年(昭和3年)秋のリーグ戦では、史上初の10戦全勝優勝を達成した(その後も同リーグではわずか5度しか達成されていない)、リーグ戦の順位が3位以下になることはなかった(1928年春の1シーズンのみ、チームの渡米遠征のため欠場)。
東京六大学野球リーグ史上最高の「二刀流」
宮武は投打に渡って、後世に残るほど記録をつくっている。
まず投手として通算61試合に登板し38勝6敗、188奪三振、勝率.864は通算20勝以上の投手で最高であり、慶應義塾大学の投手としては歴代最多勝利数である。
そして、打者としては、通算で72試合に出場、237打数72安打、7本塁打、72打点、打率.304。
通算7本塁打は、のち1936年に早稲田大学の呉明捷に並ばれたが、1957年に立教大学の長嶋茂雄に破られるまで、東京六大学野球の最多本塁打記録だった。また早稲田大学の投手・織田淳哉が1994年に9本塁打を放つまで、投手としての本塁打最多記録でもあった。
通算72打点は、1968年に法政大学の田淵幸一に破られるまでのリーグ記録だった。
さらに、1930年の春季リーグ戦では13試合に出場、35打数14安打、打率.400を記録して投手ながら首位打者を獲得しており、投手としてリーグ戦通算200打数以上で通算3割以上を記録したのは宮武のあとには法政大学の江川卓のみである。
宮武は神宮球場で史上初の場外本塁打をも記録しており、1930年(昭和5年)10月4日の対法政大学戦1回戦、初回に若林忠志から放ったもので、打球は神宮場外の相撲場(のちの神宮第二球場)まで届き、推定150メートルを超える当たりだったことから「相撲場ホームラン」の異名を取った。
都市対抗野球で優勝3度、日米野球の全日本代表へ
宮武は慶応義塾大学卒業後、パラマウント映画、東京白木屋に籍を置き、1931年にクラブチーム・「東京倶楽部」に加入すると、投打の中軸として都市対抗野球大会で第5回、第7回、第9回の3度の優勝をもたらした。
1931年に正力松太郎が社主を務める読売新聞がアメリカ大リーグ選抜を招聘し、いわゆる「日米野球」が開催された。
大リーグ選抜の参加メンバーにはルー・ゲーリッグ(ヤンキース)、ミッキー・カクレーン(アスレチックス)、レフティ・グローブ(アスレチックス)、アル・シモンズ(アスレチックス)、フランキー・フリッシュ (カージナルス)、ラビット・モランビル(ブレーブス)、レフティ・オドール(ロビンス)など、
この選抜チームの対戦相手は、当時の日本で最高レベルであった東京六大学野球リーグに所属する立教大、早稲田大、明治大であり、東京六大学の現役学生とOBの混成で組織された全日本代表チームであった。
特に全日本代表の主なメンバーは宮武三郎(慶応大OB)を筆頭に、山下実(慶応大OB)、伊達正男(早稲田大OB)、久慈次郎(早稲田大OB)、現役の学生では三原侑(早稲田大)、水原茂(慶応大)、松木謙治郎(明治大)、若林忠志(法政大)、苅田久徳(法政大)など総勢27名であった。
1934年にも読売新聞はMLB選抜チームを日本に招聘した。
コニー・マック監督率いるMLB選抜は、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスというスラッガーに加え、レフティ・ゴメスらを擁した。対する日本は、1932年に文部省が「野球統制令」を公布したため、大学野球の選手を興業に駆り出すことができなくなっており、「全日本軍」は東京六大学野球のOB、実業団(社会人野球)に所属する選手、そして沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒンらを中心としたメンバーで初めて臨んだが(宮武は選出されていない)、16戦全敗に終わった。
このチームのメンバーを母体として、同年12月26日に「大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)」が結成された。
阪急電鉄、職業野球に参入
読売新聞の正力松太郎は日本で本格的な職業野球リーグの創設に奔走していたが、日米野球での盛り上がりを見て、阪急電鉄の小林一三社長も「職業野球の時代が来る」と確信を新たにした。
慶應義塾出身の実業家である小林は1903年から始まった野球の早慶戦の人気の高まりを契機に、1916年には米国の職業野球の存在を知り、日本での職業野球参入のタイミングを図っていたのだ。
阪急電鉄として職業野球に参入する球団結成の計画を描いており、西宮北口に専用球場建設のための用地買収まで進めていた。
1935年10月、米国ワシントンD.C.に滞在中の小林から、阪急電鉄副社長の上田寧に電報が届いた。
『大毎に相談して北口運動場併に職業野球団設置、至急計画願ひ渡し、返事待つ』
阪急百貨店の洋家具売り場に勤務していた村上実は29歳、入社4年目。
上司から親会社である阪急電鉄本社の佐藤博夫専務のところへ行くように命じられた。
佐藤に会うや村上はこう切り出された。
「うちの社も職業野球のチームを作ることになった。ご苦労だが君、ひとつそれをやってくれないか」
村上は1906 年(明治39年)、兵庫県生まれで大阪府立天王寺中学(現・大阪府立天王寺高校)では三塁手としてプレー、慶應義塾大学でも野球部に所属し、名将・腰本寿監督のもとでマネジャーを務めていた。
同級生には宮武三郎、山下実、後輩には水原茂など、慶應野球部の黄金期を築いたメンバーがいた。
村上を大学野球関係者への人脈が広いものと見込んでの大抜擢であった。
村上はすぐさま読売新聞社に正力松太郎を訪ねて、職業野球への加盟を申請、受理されるや、小林一三の指示通り、大阪毎日新聞社の奥村信太郎専務に球団編成の教えを請うた。
阪急の選手の獲得方針は、豪快で洗練されたチームを作るべく、そのためにはまず、日本最強のチームを作り得るに足る選手を集めること、第二に選手は技術だけでなく、できる限り人物を選ぶこと、とした。
全国の中学、大学、実業団から獲得候補となる選手たちをリストアップした。
例えば、慶應義塾大学の宮武(投手)、山下実(内野手)、早稲田大学の伊達正男(投手)、法政大学の鶴岡一人(内野手)などが候補に挙がった。
一方、職業野球への加盟を果たしている球団の親会社である名古屋の新聞社や、同じ関西の阪神電鉄も選手の獲得に動き出していた。
当時、東京六大学野球でスターだった早稲田大学の三原脩は1934年12月に結成された「大日本東京野球倶楽部」と契約を済ませ、第1号選手として入団していた。村上にももはや猶予はなかった。
宮武三郎、スカウト合戦の末、阪急へ、契約第1号選手に
村上は獲得選手候補リストに挙げた選手のうち、同じ慶應出身の選手ならと一縷の望みを懸けて、第一候補として宮武三郎と会うことにした。
宮武は1931年に慶應を卒業し、村上は翌1932年に卒業しているので、宮武は村上の1期上の先輩にあたる。
かくして村上は11月下旬、上京して東京会館で宮武に会った。
宮武は村上に「東京セネタースと5年間、1万8000円で契約した」と話した。
だが、村上がよく話を聞いてみると、まだ宮武は東京セネタースとの契約書に署名捺印していないことが分かった。
「セネタースとの契約が完了していないのなら、ぜひウチに来てほしい」。
村上は阪急電鉄という企業のこと、創業者である小林一三の発想のすばらしさ、先見性、チームづくりの方針などを熱く語った。
それを聞いた宮武は態度を変化させた。
「わかった。東京セネタースの入団に際してお世話になった方々と相談してから決める」と返答した。
それから1カ月、村上は宮武の後援者たちと次々に会い、そしてついに契約に漕ぎつけた。
当時、大学卒の月給は60円だった。
一足先に巨人軍に第1号選手として入団した早稲田大学を中退した三原修の契約金は2000円だった。
これだけでも破格な額であったが、阪急が宮武に提示した契約金の金額は、その2.5倍の5000円という、さらに破格であった。
かくして、宮武三郎は「阪急軍」の契約選手第1号となり、背番号「1」を付けた。
そして、阪急軍の背番号「1」は、宮武が単にいちばん最初に入団した選手だからという理由で決まった。
阪急軍初代主将、西宮球場初の本塁打
阪急軍の初代メンバーのうち、宮武は内野手の山下実、外野手の堀尾文人と並んで最年長の29歳ということもあり、初代主将を務めた。
入団1年目の1936年は投手登録であったが、主に野手として出場し、打率.355、翌1937年には主に一塁手として出場し、本拠地・西宮球場で球場史上初の本塁打を放ち、投手としてもプロ初勝利を挙げたが、打撃成績が下降した。
1938年には投手不足もあり、投手として春秋通算で19試合に登板し、9勝5敗という成績を残したが、この年限りで現役を引退した。
1956年に狭心症のため49歳で急死している。
1965年、生前の功績が認められ、「特別表彰」として野球殿堂入りを果たした。
なお、宮武の死後、宮武の実の娘は当時、阪神タイガースの投手として活躍した小山正明と結婚している。
なお、宮武を阪急にスカウトした村上実は、初代監督の三宅大輔を引き継ぎ、1937年の秋シーズン途中で第2代目監督に就任、49試合のうち46試合を指揮したが、15勝29敗の成績で7位に終わった。
その後、慶應野球部で宮武の1期後輩で、村上の同級生でもある山下実が選手兼任で第3代監督の就任したものの、1939年のシーズン途中から再び村上が監督を務め、78試合を45勝31敗の好成績で乗り切ったが、シーズン3位に終わったことで解任された。
その後は阪急のフロントに戻り、25年に渡り編成業務などに携わる傍ら、1950年に、日本野球連盟が2リーグ制に分立した際、パシフィック・リーグ理事長も務めた。
1963年に阪急電鉄グループ傘下の能勢電鉄の専務に就任、その後、15年に渡って社長も務めた。
1995年に野球殿堂の「特別表彰」を授与され、1999年に死去している。
参考
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