NPBで生涯「規定打席未達」でオールスターゲーム選出の野手たち


NPBが2024年7月23日・24日に開催する「マイナビオールスターゲーム2024」の出場選手がほぼ出揃った。

中でも注目は、パシフィック・リーグ外野手部門で監督推薦で選出された、千葉ロッテマリーンズの岡大海である。

岡大海は明治大学から2013年ドラフト会議で日本ハムから3位指名を受け入団し、千葉ロッテへの移籍を経て、今季でプロ11年目である。
プロ10年での成績は770試合に出場、打率.237、34本塁打、153打点、104盗塁であるが、プロ入り以来、規定打席到達が一度もない。

しかしながら、岡は今季、ここまで72試合に出場し、打率.301、5本塁打、24打点、9盗塁で、NPB新記録となる「8試合連続二塁打」を達成するなど、大活躍を見せている。

岡大海のように、NPBの野手でキャリアで1度も規定打席に到達したことがないまま、オールスターゲームに選出された選手を振り返ってみよう。


川藤幸三(阪神タイガース/1968 - 1986)*1986年

「代打稼業」だけでオールスターゲームに出場した選手といえばこの人、「浪速の春団治」こと、川藤幸三だろう。
1967年オフ、福井・若狭高校から阪神タイガースからドラフト9位指名で入団、強肩、俊足好打の内野手として1968年10月9日、甲子園での中日ドラゴンズ戦で「9番・遊撃手」で、高卒新人ながらスタメンで一軍公式戦デビューを果たした(阪神の高卒新人野手で公式戦先発デビューは、川藤の後には2020年の井上広大まで52年間、現れなかった)。
2年目の1969年には俊足を生かして外野手に転向、ウェスタン・リーグで1試合3盗塁を決めるなど、30盗塁をマークして盗塁王を獲得したが、打撃が弱く、一軍に定着できなかった。
1974年に一軍で106試合に出場、240打席に立ってキャリアハイを更新したものの、翌1975年のキャンプでアキレス腱を断裂、以降は代打中心の起用となった。現役引退まで規定打席に1度も達することはなかったが、1978年から1981年でほぼ代打出場で4年連続でシーズン打率3割を超えるなど、無類の勝負強さを発揮した。

阪神が21年ぶりにリーグ優勝・初の日本一になった1985年は打率.179、本塁打0、6打点と不振に陥り、日本シリーズ出場は果たせなかったものの、翌1986年は開幕から好調で、すべて代打で出場し、7月11日時点で22打数9安打、打率.409、4本塁打、11打点という成績で、オールスターゲームに全セントラル監督の吉田義男監督の監督推薦によりプロ19年目にして自身初となる出場を決めた。

後楽園球場での第1戦は、全セントラルが4-6と2点ビハインドで迎えた8回裏、2死一、二塁と一発が出れば逆転という場面で代打で登場し、全パシフィックのアニマル・レスリー(阪急)からフルカウントの末、四球を選んだ。


続く、大阪球場での第2戦でも、3-3の同点で迎えた9回表2死走者なしで代打で登場し、全パシフィックの小野和義(西武)の初球を叩いて左中間を真っ二つのライナーで破るヒットを放った。全セントラルの一塁コーチボックスに立っていた王貞治が腕を回したため、川藤は二塁を狙ったが、フェンス手前で追いついたセンター・秋山幸二からショート・石毛宏典、セカンド・大石大二郎へと中継のボールが渡って二塁ベース手前で悠々アウトとなり、吉田監督、両チームの選手を始め、場内のファンらの爆笑を誘った。
川藤がオールスターで放った最初で最後の安打の記念ボールは直後に大石から川藤に贈られた。

https://www.youtube.com/watch?v=SpsF32aHt0w


川藤曰く「バットにボールが当たって、やれ仕事が終わったと思ったら、一塁で王さんがグルグル腕を回してる。これはあかんと思った」。
広島市民球場での第3戦も、3-3の同点で迎えた9回裏、1死走者なしで、一発が出ればサヨナラという場面で代打で起用されたが、小野和義の前にセカンドフライに倒れた。

川藤はこの年、現役を引退を決め、10月14日、阪神甲子園球場での対大洋ホエールズ戦が引退試合となった。
5回裏、2死一、二塁と絶好のチャンスで、代打で登場、大洋の新人投手・高橋一彦と対戦し、セカンドゴロに倒れた。

川藤はプロ生活19年で通算771試合に出場し、895打数211安打、16本塁打、108打点、打率.236であったが、うち、代打での通算成績は318打数84安打、11本塁打、58打点、打率.264であった。

村田真一(読売ジャイアンツ/1982-2001)*1994年、1995年選出

意外だと思った方がかなり多いのではないか。
1980年代後半から1990年代後半にかけて読売ジャイアンツの捕手として活躍した村田真一は、1994年、槙原寛己の完全試合をアシストするなど正捕手の印象が強く、プロ生活20年、実働15年のキャリアで1134試合に出場しており、673安打、98本塁打を放っているが、実は1度も規定打席に達することなく引退している。
1990年にセ・リーグのベストナインを獲得しているが、このシーズンも84試合出場、243打席のみで、13本塁打、44打点。
キャリアハイの120試合に出場した1994年も380打席で、翌1995年も、116試合に出場して387打席と規定打席に足りなかったが、2年連続でオールスターに選出されている。

松本哲也(読売ジャイアンツ/2007-2016)*2010年選出

松本哲也は2006年ドラフト会議で読売ジャイアンツから育成3巡目指名を受け入団、俊足で好守・巧打の外野手として、2007年、巨人の育成選手としては初の支配下登録を勝ち取ると、2009年、129試合に出場、打率.293、0本塁打、16盗塁で育成枠出身選手初となるゴールデングラブ賞、育成枠出身の野手初の新人王を受賞したが、424打席で規定打席にはわずかに不足していた。
翌2010年、オールスターゲームの外野手部門でファン投票で選出され、育成出身選手として初の出場を果たしているが、94試合で打率.287をマークしたたものの、350打席とまたも規定打席不足に終わり、その後、打撃不振もあり、プロ生活11年で規定打席を超えることは1度もないまま引退した。

鶴岡慎也(日本ハム→ソフトバンク→日本ハム/2003-2021)*2012年選出

2023年WBCの日本代表にブルペン捕手として参加した鶴岡慎也も、現役時代、レギュラーシーズンで1度も規定打席に到達しないまま引退している。
プロ3年目の2005年に一軍公式戦で初出場を果たしたが、その後、ダルビッシュ有の「専用捕手」と言われ、2006年が先発24試合で15試合、2007年が先発した26試合のうち、19試合、2008年には24試合の全試合で、2009年には25試合のうち22試合で先発マスクを被るほどであった。
日本ハムの選手会長として迎えた2012年シーズンは、開幕当初から大野奨太と併用起用されたが、7月上旬の大野の登録抹消後に正捕手となると、オールスターゲーム捕手部門のファン投票1位で選出された。
最終的にレギュラーシーズンは116試合に出場、うち94試合で先発でマスクを被り、キャリハイとなる打率.266という成績を残し、パ・リーグ制覇に貢献、同年のMVPを受賞した吉川光夫とのコンビで最優秀バッテリー賞を初受賞した(日本ハムでは1993年金石昭人・ 田村藤夫のバッテリー以来の受賞)。
2013年オフにFA権を行使してソフトバンクに移籍したが、細川亨高谷裕亮との併用で規定打席に達することはなく、甲斐拓也の台頭もあり、2017年オフに、FAで古巣・日本ハムに戻り、2021年オフに現役を引退した。

原口文仁(阪神タイガース/2010-)*2016年、2017年に選出

原口文仁は帝京高から2009年のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから6巡目で指名されて入団したが、一軍出場がないまま、2012年オフに腰痛のため、育成契約に移行した。
2016年の開幕後の4月27日に3年ぶりに支配下登録選手へ復帰するとともに、背番号を「94」へ変更。5月には月間通算で打率.380、5本塁打、17打点でセ・リーグ月間MVPに選出されると、ファン投票ではノミネート選手でないにも関わらず2位に食い込み、48試合に出場し打率.338、6本塁打、21打点という成績を評価され、監督推薦でオールスターゲームに選出、育成契約を経験した捕手としては初の快挙となった。その後、右肩痛で一塁手や代打にも起用され、一軍公式戦で107試合に出場。打率.299、11本塁打、46打点を記録したが、364打席に留まり、規定打席には届かなかった。

2018年には捕手に専念したが、梅野隆太郎との併用で82試合に出場、うち57試合で起用された代打での打率は.404と驚異的で、代打による一軍公式戦でのシーズン23安打は、阪神では1982年の永尾泰憲を抜き、2008年の桧山信次郎の持つ球団記録に並び、右打者では球団最多記録で、左打者を含めてもNPB歴代3位の記録をマークした。
しかしながら、2019年の春季キャンプ直前に大腸癌を患っていることを自身の旧Twitter公式アカウントと球団を通じて公表、闘病生活に入った。
二軍でのリハビリを経て、6月4日にシーズン初の出場選手登録を果たすと、対千葉ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)で9回に代打に起用され、タイムリー二塁打を放ち、6月9日の対日本ハム戦(甲子園)でも代打でサヨナラ安打を放つなど、印象的な活躍を見せると、19試合の出場で打率.206、本塁打0ながら、オールスターゲームの「プラスワン投票」でセ・リーグ得票数1位で3年ぶりに出場を決めた。
7月12日の第1戦(東京ドーム)、9回裏2死一塁の場面で代打で起用されると、山本由伸から劇的な2ラン本塁打を放ち、「7番・指名打者」としてスタメンに起用された翌13日の第2戦(甲子園)2回裏の第1打席で高橋光成からソロ本塁打を放ち、2試合連続・2打席連続本塁打を記録した。
しかしながら、昨シーズンまでプロ14年で規定打席到達はまだない。

牧原大成(福岡ソフトバンクホークス/2011-)*2022年選出

2010年のドラフト会議にて福岡ソフトバンクホークスから育成5位指名を受け、入団、2012年6月に支配下選手登録をされた。

2013年、ウエスタン・リーグ最多盗塁、2014年にはウエスタン・リーグの首位打者に加え、同リーグの優秀選手賞を受賞するなど実力をつけたが、ソフトバンクの選手層が厚く、2018年までなかなか一軍に定着できなかった。
2019年は4年ぶりの開幕一軍入りで、「1番・二塁」で自身初となる開幕スタメンを勝ち取ったが、その後、打撃が振るわず、腰の違和感もあり不振が続き、一度登録を抹消されたが7月に再び一軍へ昇格、主力に故障者が相次いだため、内外野のユーティリティープレイヤーとして、自己最多となる114試合に出場し、打率.242、3本塁打、27打点という成績を残したものの、436打席で規定打席には達しなかった。

2022年は開幕から好調で、7月3日時点で打率.332と維持し、プロ12年目で初めてオールスターゲームに選出され、第2戦で「6番・二塁」でスタメン出場し、マルチ安打を記録した。8月に新型コロナウィルスの陽性の疑いであり、離脱を余儀なくされたが、9月上旬に復帰、キャリアハイの120試合出場、打率.301、123安打、6本塁打、42打点で終えたが、441打席で規定打席にあと2打席足りなかった。

2023年開幕前にはWBC日本代表として、辞退した鈴木誠也の代替選手として選出、代走や外野の守備固めとして全7試合中6試合に出場、チェコ戦では途中出場でタイムリー安打を放ち、決勝戦でも9回からセンターの守備固めで出場、日本代表の10年ぶりの歓喜の瞬間をグラウンドで味わった。
しかし、公式戦では左太もものケガや、死球による右手首骨折による影響で、91試合に出場し、打率.259、2本塁打、32打点に留まった。

周東佑京(福岡ソフトバンクホークス/2018-)*2024年選出

2017年ドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスから育成2位指名を受け入団。
2019年シーズン開幕直前、支配下選手登録され、4月7日に初出場、4月9日に初盗塁、4月21日に初スタメンの試合でプロ初安打・初本塁打となる3点本塁打を含む4打点と活躍したが、その後は故障者の復帰もあり、次第に先発出場の機会がなくなり、主に代走からの出場や守備固めとして起用され、最終的には102試合の出場で、チームトップの25盗塁を記録したが、114打席で打率.196。

2020年は、10月29日の千葉ロッテマリーンズ戦(福岡PayPayドーム)で福本豊(阪急)の持つNPB記録「11試合連続盗塁」を破り、「12試合連続盗塁」をマークするなど(その後「13」に更新)、規定打席不足の選手としては、1951年に52盗塁を成功させた土屋五郎(国鉄)以来、NPB史上2人目、パ・リーグでは史上初となるシーズン50盗塁に到達、育成選手出身で初の打撃タイトルホルダーとなる盗塁王を獲得した。
規定打席未達の盗塁王獲得は、2011年の藤村大介(読売ジャイアンツ)以来、NPB史上11人目、パ・リーグでは1966年の山本公士(阪急)、1967年の西田孝之(東京オリオンズ)に続き史上3人目となった。

2021年はケガの影響で70試合、188打席、2022年は80試合出場ながら、打席数は318に増やし、4年連続でシーズン20盗塁をクリア、2023年はキャリアハイとなる114試合に出場、自身通算150盗塁をマークするなど、シーズン36盗塁で自身2度目の盗塁王を獲得したが、268打席に留まり、入団以来、まだ規定打席には到達していない。

2024年は開幕から打撃好調で3月31日のオリックス戦から4月13日の西武戦まで11試合連続得点を挙げるなど、目下、パ・リーグ盗塁数でトップとなる27盗塁(7月8日現在)で、オールスターゲームでは同僚の柳田悠岐の代替選手として初めて選出された。





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