見出し画像

貴船神社と鞍馬寺(4)

こんにちは。昨日の続きです。

さて、鞍馬弘教を初めて知って衝撃を受けた後、お約束の鐘つき堂で鐘をつかせていただき、奥の院「魔王殿」を目指しました。

「魔王殿」って…
言葉だけでも怖そうなんだけど。

歩けど歩けど、登れど登れど、いつになったら到着するのかわからない不安の中、すれ違う外国の観光客(この日は本当に人が少なかった)が、目を合わせて「こんにちは」って言ってくれるのが、とても気持ち良かった。

若い頃に海外旅行をした時は、どこでも「Hello!」「Good morning!」って、声を掛け合っていたのに、覚えたての日本語を使いたい外国人の方々が、「こんにちは」って声を掛けてくれる。
伏見稲荷大社の稲荷山登山の時は、観光客自体の多さからか、東洋系の観光客が多いこともあるのか、声を掛け合うということはなかったから、
なんか、とても新鮮な気分だった。

声を掛けるのは、たいていヨーロッパの方が多い。

そんなことを感じながら徐々に登っていくと、自然の凄まじい様がそのままの状態で「在る」景色に変わっていく。
険しさ、物々しさ、圧倒的な自然の驚異の様を目にしながら、ますます人気(ひとけ)が少なくなり、時折周りに誰も見えなくなると不安感に襲われることもあった。

タイトル画像の写真の、木が根っこから倒れている様子は、生まれて初めて目の当たりにした。
この木はこの後どうなるのだろう。
また何十年、何百年、何千年とかかって、土に戻るまでこの状態なのだろうか。
このような状態の倒木にたくさん遭遇した。
それほど遠くない過去に、もの凄い台風か豪雨があったんだろう。
山に登るとよく、石を突き破って根を張る木のすさまじい生命力を感じることがあるが、木の終焉の様は初めて見たような気がする。
それでもその身に他の生命を宿し、苔やその他の微生物の棲み処として、最後まで自分の命を使い果たしていることに、感動を覚えた。
そして、何よりも雨風の凄まじさを想像し、身震いした。

ほぼ山の頂上と思われる辺りでふと上を見上げた時、光があたっている箇所に目が留まり、思わず二度見をしてしまいました。
これって、雷が落ちたんですよね。じっくり見ると、先っぽが黒く焦げています。
こちらも生まれて初めて見ました。落雷の凄まじさと、ピンポイントで狙い撃ちできる奇跡は、自然の偉大なる摂理の賜物だと感じました。

雷が落ちたと思われる木
牛若丸も兵法修行をしたと伝わる木の根道

ずっと上り坂だったのに、途中から急な下り坂になる。
ここまでで随分脚の疲労を感じていたので、先の見えない下り坂を見た時、帰り道まで脚が持つか自信を失いそうになったが、とにかく奥の院まで行きたい気持ちの方が優先した。

人生は常に選択。
私は「どうしよう」と迷った時、怖い方、足がすくみそうになる方を選ぶ。
「迷う」ということは、「進む」「Go!」という選択肢を捨ててないから迷うわけで、後退する選択肢しか選べない時以外は、進むのが自然の摂理だと思うから。
その後どうなろうと、神様(または神なるもの)に全てをお任せする。

あとどれくらい歩いたら辿り着けるのか分からない中、猛烈な風雨によって荒れたさらに深い山の中へ行く途中、完全に一人きりの状態になった。
怖かった。(いつも怖そうな場所に行くとき、一人っきりになるんだけど、なんでかな?)

しばらくすると、私より20歳は年上だろうな、と思われる女性に遭遇する。
彼女は微笑みながら、「もう少しよ」と優しく声を掛けてくれた。
老婦人が、こんなアップダウンがキツく長い道をお一人でスイスイと歩いていらっしゃる様子を見て、凄いなぁと思った。
聞けば、彼女は子どものころからここが遊び場だったという。足腰の鍛え方が違うのだ。
山登りしたいと思ったら、普段からもっと鍛えないとなぁ…と反省しつつも、鍛えさえすれば、あと20年はこれくらいの山には登れるという希望をもらえた。

そうして、何とか奥の院「魔王殿」まで辿り着けることができた。
魔王殿には、650万年前に金星から地球に降り立ったという魔王尊(サナート・クマラ)が祀られていて、その降り立った磐座が魔王殿の下にあった。
(サナート・クマラって何?誰?・・・その後またまた勉強することになる)
誰がいつの時代にそのように祀ったのかはわからないけど、天からのお告げなしには畏れ多すぎてできないだろうと思われるパワーを感じた。

おそらくヨーロッパ人と思われる複数の方々がいた。
厳かな雰囲気を感じ取ってか、おしゃべりをする方はなく、瞑想のような祈りのような雰囲気で、とても静かに座って祈っていた姿が印象的だった。
伏見稲荷大社の山頂で感じた観光的雰囲気はなく、動物的感覚でその場所が神聖な場所であることを感じ取ったかのような、本当に神聖な時間が流れていた。

魔王殿の向かい側の縄が張ってある場所の前に、

石灰岩2
古生代ペルム紀中期(2億8千年前)に、古赤道付近の海山上で礁を形成していたが、その後、海洋プレートの移動によって、ジュラ紀(約2億年前)に、当時の大陸縁辺まで運ばれたと考えられている。

と書かれた立札が立っていた。

すごいなぁ。ホント、すごいなぁ、地球って、自然って、宇宙って。
ひとつの狂いもなく、我々は存在している。
おかしなことも、悪も善も、全てが完全に調和した「今」という連続がただ続いていて、ただ、回転しながら上昇している。
おっと、頭が宇宙論にまでいきそうになってしまった。

天文学的なありえない確率で、日々の全てのことが起こっている。

これを奇跡といわずに何といおう。
今日、私を幸せな気分にしてくれた人やことも、今日私に嫌な気分にしてくれた人やことも、全てが奇跡なのだ。

そんなことを思いながら下山していたら、途中から膝が痛みだして、その痛みがどんどん尋常じゃなくなる。
あかん、もう、無理。

(でも、大丈夫だった。でも、2日目から、かがむことが困難なほどの強烈な筋肉痛が2日続いた。でも、治った。)

そうなんよ。
大丈夫なんよ、きっと、いろんなこと。
乗り越えられるようにできてるんだよね、全部。

もうすぐで駐車場、っていうところで、胸にグサッと来る石碑の横に書かれた言葉に出会った。

光に向かってはげむ


なーんにも考えなくていい。
数えきれないほどの宗教や教えや方法論やメソッドやニューエイジやスピリチュアルやらが存在するけれど、

人間も自然の一部なんだから、木や草花や昆虫や動物たちのように、光に向かって、感謝しつつ、ただ、はげむだけでいいんだと思った。
(超シンプル!)
乾いたら水を飲み、疲れたら休み、頑張れる時には頑張り、痛みをこらえないといけない時はこらえ、時折、ここで感じたことを思い出して感謝していさえすれば、大抵の望みは叶えられるようになっているし、全ての試練は乗り越えられるように❝できている❞。

私のゼロポイントが、確実に定まった気がした。

戻る場所⇒「光に向かって、ただ、はげむ。

ぐらつきそうになったら、戻る場所。

帰りがけに鞍馬寺がスピリチュアル界隈で超強力なパワースポットだということを知った。

貴船神社と鞍馬寺には、必ずもう一度行くことを決めた。

そして、もっとちゃんと学びなおそうと思った。
その学びの中で気付いた、鞍馬寺のもう一つのエピソード「牛若丸こと源義経」と鬼滅の刃について話そうと思う。

観光客でいっぱいになる前に、行った方がいいですよ、まだの方で信仰深く、魂レベルの高い方は。
ここも、外国人観光客が絶対に行ってみたい「聖地」として超有名になるはずだから。(と、私のハイヤーセルフが言っています、とスピリチュアル的には言うのかな??よくわかんないけど。)

健康でいられることに感謝します。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また、明日ね。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?