230.三十年前のお正月

本稿は、2022年1月1日に掲載した記事の再録です

1991年(平成3年)から92年(平成4年)にかけての年末年始、私は友人と2人で函館旅行に出かけ、港近くにあるホテルに泊まって新しい年を迎えました。今からちょうど三十年前のことでした。

お正月といえば毎年家族と一緒でしたが、友人と2人でどこかに旅行に行きたいねと連れ立って出かけたのでした。

それまで外国で過ごした一年間を除き、私は毎年家族でお正月を迎えていました。そのため、その時初めてそれぞれの家の習慣や価値観の違いを知って驚いたことをよく覚えてます。

◇ ◇ ◇

私たちは函館に着くなり、ガイドブック片手に路線電車を乗り継いであちこち観光して周りました。函館山のロープウェイに乗ったり、修道院に行ったり、美しい街並みを歩きながら函館名産のおいしいものもたくさん食べました。

大晦日の朝も早起きして朝市に出掛けて、出店がずらりと並ぶ中を勧められるままに焼き網の上で音を立てている帆立貝、焼き蟹、それに透明なイカ刺しなどを次々にいただきました。午後も観光地を巡り、温泉にも入り、一日中あちらこちらでおいしいものを食べまくりました。

そして、夕方になった頃、私が年越しそばはどこで食べようかと友人に尋ねると、私たちこんなにお腹いっぱいなのにまだ夕食を食べるの? と友人は呆れたような表情をしました。

私はその言葉に驚いて、年越しそばと夕食とは別物であって、夕食は省略してもいいけれど、年越しそばは縁起物だから食べないわけにはいかないんじゃないのと答えました。

友人は、年越しそばなんて食べても食べなくてもどちらでもいい、食べることもあるけど食べないこともあるし…、でももし縁起物ということでどうしても食べたいのなら付き合うけど、私はお腹いっぱいだから、お蕎麦屋さんに入ったら蒲鉾でもつまんでいるわと言いました。

私が育った家では、年越しそばは大晦日には欠かせないものだったので、そんなことはあり得ないと感じました。ちょっと大袈裟に言えば、なんだか聞いてはいけないようなことを聞いてしまったような気分でした。

そういえば、この旅行に出る時も、私が時間がなくて大掃除が満足にできなかったというと、友人はキョトンとしてお掃除してきたの?と聞くので、私が年末だからねと答えると、友人はへぇ、そうなの?と不思議そうな表情をしたのでした。

大掃除しなかったの?とたずねると、うちはお手伝いさんがやってくれるからと友人は答えました。でも学校では年末大掃除したでしょ?と聞くと、友人は小学校からずっと私立の学校だったのでお掃除は専門の人がやってくれていたので、学校に掃除当番はなかったと言われてびっくりしたばかりでした。

それではおせち料理はどうしてるの? と聞いてみると、おせち料理は出来合いの物をお重箱ごと購入していると聞いて私はさらに驚きました。三十年後の現在では、おせち料理をデパートや通販サイトで購入するのはもはや当たり前かもしれませんが、当時の私にとっては衝撃的な発言でした。

私の家では年末には、黒豆を煮、なますを作り、野菜を炊き合わせ、ごまめを煎りつけ、数の子の塩抜きをしました。蒲鉾や伊達巻や栗きんとんは買ってきましたが、家でお重に詰めました。私は子どもの頃から玉子焼きを焼くのが好きで、率先して自分の出番だと張り切ったものでした。

まめまめしく働くように、先を見通せるように、子孫が繁栄しますようになど、一品一品に意味があると聞かされながら作るおせち料理は、年の瀬の重要な行事のひとつでした。私にとっては混雑するスーパーで買い物をするところからおせち料理作りは始まりました。

それが、完成したお重箱を購入するとは一体どういうことなのかと思いました。

友人とは本当に仲が良く、いつもいつも一緒に行動していましたが、年末年始を共に過ごしてみて、それぞれの家の習慣や考え方を初めて知ったのでした。私の育った家なりに、こうするものだ、ああするものだという暗黙の決まり事がありましたが、それまであまりにも当たり前過ぎて、それ以外の考え方があるということに気づくことすらありませんでした。

あの頃の私は、自分の育った家のやり方こそが「正しい」のであって、年末に大掃除をしないとか、年越し蕎麦を食べないとか、おせち料理を家で作らずに購入することなどは考えられないことでした。

ただ言われてみれば、朝からたらふく食べ続けていた私たちにとっては、年越し蕎麦を食べることはもはや「苦行」であって、単に形骸化した「縁起物」に過ぎなくなっていました。それでも、長年の習慣はそう簡単には変えられないもので、私だけお蕎麦屋さんで年越し蕎麦をいただき、友人は蒲鉾をつまんだのでした。

◇ ◇ ◇

あれから三十年の月日が流れてみると、子どもの頃、おおみそかにはすべて新品の洋服を枕元に準備して眠りについたことや、お正月の三ヶ日には掃除洗濯など一切してはならないという言いつけを守り、「ハレの日」を祝ったことなどが遠い昔のように感じられます。あの頃はハレとケの区別が今よりももっと明確でした。

そしてこの三十年間で、こうせねばならない、こうであるべきという考え方は随分変わったように思います。さまざまな分野で、それぞれの個性や考え方を尊重しようとなってきました。

ところで、紀文のサイトの「おせちの歴史年表 千年の起源から現代まで」によれば「昭和50年代に調理済のおせちを詰め合わせたお重詰めセットが販売される」とあります。そして「昭和58年(1983)紀文食品お重詰めセット本格発売」と記されています。

今では、おせち料理を購入するのは少しも珍しいことではなくなりました。昨年などは巣ごもり需要もあり、東洋経済の記事によれば、おせち料理の市場規模は公式な統計はないものの、この20年でおよそ300億円から600億円に倍増したということです。

年末の大掃除を家事のプロにお任せしたり、それどころか日常の家事労働もプロの手を借りるというのもすっかり定着してきました。今日では「予約の取れない伝説の家政婦さん」もメディアで話題になっていて、時代の移ろいを感じます。しかし伝統だのしきたりだのといっても、そもそもおせち料理というのも、戦後に生まれた文化というのがどうやら定説のようです。

私自身結婚して、婚家と実家のさまざまな習慣が違って心の中で驚くことは幾度かありましたが、それでもあの日の年越し蕎麦ほどの衝撃はなく、この時のエピソードは夫婦円満の秘訣となりました。

◇ ◇ ◇

ところで、函館旅行に行ったのがなぜちょうど三十年前だったのかがわかるのかというと、その年の紅白歌合戦にKANが出場して「愛が勝つ」を歌っていたことを鮮明に覚えているからです。

NHKの紅白ヒストリーのサイトによれば、この年、1991年の紅白は次のように紹介されています。

開会宣言は若貴兄弟。湾岸戦争、ソ連の解体、バブル崩壊という激動の時代を背景に、「どんなときも」、「愛は勝つ」などメッセージ色の高い歌がヒットした。とんねるずはパンツ一枚という衣装で驚かせた。SMAPが初出場。

尚、この年の司会者は、総合司会が山川静夫アナウンサー、紅組は淺野ゆう子、白組は堺正章でした。

1978年(昭和53年)に始まったTBSの「ザ・ベストテン」も1989年(平成元年)に放送を終了していて、私も三十代となり毎晩夜遅くまで残業していましたから、歌番組を見たり聞いたりするということもなくなり、歌謡曲は年に一度、紅白歌合戦で聞くくらいになっていました。

お蕎麦屋さんからホテルに戻って、夜、友人と共に紅白を見ていたらKANの「愛は勝つ」が始まって、その時私が「この曲も初めて聴いた」と言ったら、友人に「今年の大ヒット曲なのに、知らないとはビックリ」と言われたことをよく覚えています。

歌詞は次の通り、Youtubeはこちらです。

愛は勝つ
歌:KAN
作詞:KAN
作曲:KAN

心配ないからね君の想いが
誰かにとどく明日がきっとある
どんなに困難でくじけそうでも
信じることを決してやめないで
Carry on carry out
傷つけ傷ついて愛する切なさに
すこしつかれても Oh もう一度夢見よう
愛されるよろこびを知っているのなら

夜空に流星をみつけるたびに
願いをたくしぼくらはやってきた
どんなに困難でくじけそうでも
信じることさ必ず最後に愛は勝つ
Carry on carry out
求めてうばわれて与えてうらぎられ
愛は育つもの Oh 遠ければ遠いほど
勝ちとるよろこびはきっと大きいだろう

心配ないからね君の勇気が
誰かにとどく明日はきっとある
どんなに困難でくじけそうでも
信じることさ必ず最後に愛は勝つ
信じることさ必ず最後に愛は勝つ

後世になってバブル崩壊期と呼ばれたこの時代ですが、「心配ないからね」とか「どんなに困難でくじけそうでも」という歌詞のこの曲が大ヒットしたということは、あの当時、人々は日々心配事を抱え困難に立ち向かっていたのでしょう。

1989年に史上最高値の38,915円をつけた日経平均株価も、翌年1990年10月1日には2万円代を割り込み、景気動向指数も1991年からは一気に下降曲線を描き、不動産価格も1991年からつるべ落としのように下落していきました。

1980年代後半、一部の人がリゾート開発とかゴルフ会員権に夢中になって投機をしているのを横目で見ていましたが、まさかこれがバブルと呼ばれ、それがはじけて崩壊し、その後十年も二十年も日本経済が大きな打撃を受けることになるとは思いもしませんでした。

私は、自分自身は真面目にまともに生きているつもりでした。株式投資にも土地転がしにも自分は無縁であり、バブルの前も、バブル期も、バブル後も、何一つ変わらずコツコツと生きてきたつもりでした。おそらく大勢の人々も私と同じように「普通に」暮らしていたと感じていたと思います。

日本経済の長期低迷によって、まさか定年退職をする間際になって、「あなたの企業年金の額は半分となりました。『理解しました』と返信しない場合には企業年金はゼロとなりますのでご了承ください」という通知が届くことになろうとは思いも寄りませんでした。

社会が狂うということは、戦争を引き合いに出すまでもなく、自分はコツコツと地道に生きていると思っていた人々までも巻き込まれていくということなのだと随分あとになって気づかされました。

◇ ◇ ◇

「心配ないからね君の勇気が 誰かにとどく明日はきっとある」
という歌詞に私まで励まされいるうちに紅白歌合戦は終わり、いよいよ年明けの瞬間となった時、突然、辺りの空気が震えました。

ボ〜という船の汽笛が一斉に鳴り響いたのでした。

港町で迎える初めてのお正月だったので、最初は何の音だかわかりませんでしたが、友人と二人でホテルの部屋の窓を開け、幾重にも重なり合って新しい年を告げる汽笛の音を全身で受け止めました。


<再録にあたって>
まさか、この稿を書いてから2年も経たないうちにKANさんが亡くなるとは、想像もしていませんでした。私よりも3つも年下でした。訃報に接した時、自分でも驚くほどショックを受けました。どんな方だったのだろうと思いWikipediaを読んでいたら、「フランス人になりたい」と言ってフランスに留学したこともあると書かれていて、とても驚きました。私も子どもの頃「大きくなったらフランス人になりたい」と思って、実際に大人になってからフランスに住みに行きましたから。心よりご冥福をお祈りいたします。


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