086.「北の国から」と馬

田中邦衛さんの訃報に接し、多くの方々と同じように私も1981年から始まった連続ドラマ「北の国から」の第1回目の放送から2002年「遺言」までの、様々な場面が脳裏を駆け巡りました。「北の国から」は録画やレンタルビデオで何度も観ました。どの回もどの場面も印象深く忘れ難いのですが、とりわけ初期の頃の放送で私の心に深く刻まれたのは、猛吹雪で遭難した雪子おばさんと純くんを探し出した「馬」のことでした。

「北の国から」は、浮気した妻と別れた黒板五郎(田中邦衛)が、1980年に小学四年生の長男・純(吉岡秀隆)と、小学二年生の長女・蛍(中嶋朋子)を連れて生まれ故郷の北海道の富良野へ戻り、電気もなければ水道もない、当然電話もない、荒野の中で既に廃屋になってしまっている生家で生活を始めるという、東京で生まれ育った子どもたちにとっては想像を絶する暮らしを描いたドラマです。

それでも五郎の従兄弟の北村清吉(大滝秀治)や幼馴染の中畑和夫(地井武男)を始め、町の人々の手助けもあって、北海道の厳しくも美しい大自然の中で、一家はなんとか暮らし始めます。このような日々を通して、親子愛、隣人愛、子どもの成長などのテーマと共に、毎回「近代とは何か」という問題を突きつけられるエピソードが起こり、便利さとは何か、人の営みとは何か、自らの生活の足元を見つめ直さずにはいられないドラマでした。

◇ ◇ ◇

「馬」のエピソードの回は1981年から始まった連続ドラマの第10回目でした。

この回の冒頭は、風力発電のプロペラを磨いている長男・純が、その横で縫い物をする雪子おばさん(竹下景子)に、「この前、友だちのお祖父さんに風力発電の話をしたら、『風力発電なんかではテレビも見えないから、北電の知り合いに電気を通すよう頼んでやる』って言われたんだけど、こんなこと父さんには話せないよな…」とこぼすところから始まります。

友だちのお祖父さんは「へなまずるい」という評判の悪い人物です。北海道ではずるい人の事を「なまずる」と言い、もっとずるい人の事を「へなまずるい」と言うのだそうです。

この前の第9回で、黒板五郎は、子どもたちや雪子おばさんに設計図を見せて、風力発電の計画を説明し、既に作業に取り掛かっていました。雪子おばさんは、お母さん(いしだあゆみ)の妹で、東京で不倫関係にあった男の赤ちゃんを手術してせっぱつまってこの富良野に逃げてきていました。

二人がそんな話をしているところへ、町の人が「風力発電の備品が揃ったから取りに来てくれって」という五郎宛の伝言をしにやってきました。純と雪子おばさんの二人は、五郎が留守の間に「こっそり取ってきて、帰ったらびっくりさせよう」と計画し、早速車に乗って出かけます。しかしその日は午後から吹雪の天気予報が出ていました。

二人が出かけてしばらくした頃、家で長女の蛍がひとりでお手玉をしながら留守番しているところへ「北電の知り合いに電気を通すよう頼んでやる」と言っていた純の友人の祖父、笠松杵次(大友柳太朗)がふらりとやってきます。蛍のお手玉で見事な技を披露していると、そこへ五郎が帰ってきて、杵次に「『馬ソリ』でここまでいらしたんですか」と聞きます。「馬が来てるの⁈」と表に飛び出そうとする蛍に、五郎は「気をつけなさい。後にまわるとけられるよ」と注意すると、杵次は「馬は子どもなどけりゃせん!」と言いました。

この杵次の馬は、町の噂によれば十八年も生きている老馬で、かいば料にも事欠く中、本当は杵次も売りたがっているらしく値段交渉もしたそうだけれども、売るといっても馬肉くらいにしかならない馬に、杵次の言い値など出す者など誰もおらず、今では「無用の長物」だということでした。

その杵次が五郎に何の用かといえば、例の北電に頼んだ電気敷設の担当者がまもなくやってくるということを告げに来たのでした。口ごもりながらも五郎はこれを断ろうとします。杵次は言います。「わしのすることは、お前、何につけてことわるな」「水道のときもことわった」「わからんな」「どうしてお前は便利になったもンをわざとのように利用せん」 五郎が「イヤそんなわざと利用せんなンて」と言い返そうとすると、「せんじゃないか」と杵次は遮ります。

「むかしこの村には電気がなかった。そのことでわしらはえらい苦労した」「その苦労を子どもや孫にまでかけまいと、必死に運動して電気をとおした」「中畑のじいさんや、——お前のおやじや——死んだ前川や、飯田の茂や——」「富良野まで何度も足を運んで——生意気な役人に頭をさげとおして——そうしてようやく電気をひいてもらった」「その電気をお前はひいていらんという」「そういうとるべ! 現実に!」「お前のおやじがきいたら何ちゅうか」

ほとんど返答に詰まりっぱなしの五郎に、杵次は畳みかけるように言います。「むかしァ、なつかしがるだけのもンでない」「二度としたくないむかしだってある」「お前はまちがっとる」「いまに後悔する」 そう言い捨てて、戸口に戻ってきた蛍をちょっとなで、雪の中へ消えていきます。

一方、風力発電の備品を取りに行った純と雪子おばさんの車は、突然ものすごくなった吹雪の中を、激しくワイパーを動かし、頻繁にギアチェンジを行い、フロントガラスにほとんど顔をつけながら進みますが、遂に吹きだまりにつっこんでしまいます。最初、二人は表へ出てスコップで懸命に雪を掘りなんとか脱出を試みようとしますが、北海道の本格的な吹雪で真っ白な視界の中、命の危険を感じ車の中で助けを待つことにします。そして雪は車を覆い隠していきました。

その頃、猛吹雪で送電線が切れて停電がおき、町の人々も新式に変えたばかりの部屋の暖房が切れてしまい、懐中電灯とロウソクの灯りを頼りに石油ストーブかせめて薪ストーブでもと探し回ったり、牛舎の暖房が切れ、電気で制御された水道も断水し、仔豚が産まれるというのに豚舎の暖房も全て切れてしまうなど、あちこちで大騒ぎになっていました。

そんな中、二人が帰ってこないと幼馴染の家へ助けを求めに行く五郎ですが、猛吹雪を前にはなすすべがなく、「ジープでも無理だろう」「北電の除雪車もあきらめたらしい」と言われてしまいます。その時、その場にいたひとりが「馬ソリならどうです? 馬なら人を探すのではないですか」と提案し、急ぎ五郎は杵次の家へ「馬ソリを貸してくれ」と頼みに行きます。

杵次と五郎の乗った馬ソリは、吹き荒れる吹雪の中を進みます。白く盛り上がった雪の山の前まで来ると、馬は急に歩くのをやめました。シャンシャンという鈴の音がやみ、首振る馬の白い息が立ち昇ります。五郎と杵次がソリから飛び降り、スコップで狂ったように、雪の山を掘り返しました。

二人は奇跡的に助け出されました。吹雪はまる二日続き、馬がいなかったら助からなかったと町の人々は口々に言い合いました。

◇ ◇ ◇

私は三十代の頃、馬の不思議な能力で、日が暮れた暗闇の中を無事に帰って来ることができたという経験があります。今思い返しても、馬の能力の高さには驚くべきものがあると感じています。

ある時、旅先でたまたま観光用の馬に跨って、ガイドさんの後について牧場の近くを一周したのがあまりに楽しかったので、それ以来、国内外で外乗りに挑戦したり、カナディアン・ロッキーで二泊三日の乗馬の旅に出たりしているうちに、乗馬のレッスンを本格的に受けてみたいと思うようになりました。そこで自宅からも通えそうな乗馬クラブに申し込んで練習を始めました。

乗馬のレッスンは、およそ45分くらいのレッスンを終えると、「ひと鞍」乗ったと表現するのですが、その頃の私は約2年ほどの間におおよそ80鞍乗り、なんとか入門者を卒業して初級者の仲間入りをしたというところでした。並歩(なみあし)と呼ばれるゆっくり歩く方法、速歩(はやあし)と呼ばれる上下に揺れが伝わる一段階速く歩く方法、そして駈歩(かけあし)と呼ばれるさらに速くなった乗り方を、とりあえず一通り学んだというレベルでした。

そんなある日、乗馬経験が豊富な職場の同僚から、今度海岸線を走るコースに行くけれどよかったら一緒に行かないかと誘われました。その同僚は馬術大会にも出場しているようなベテランで、私にはとてもそんな実力はないと一旦はお断りしたのですが、他にも気のいい乗馬仲間も来るし、泊まりがけで食事もおいしくて楽しいからと勧められて、すっかりその気になって出かけることにしました。

そして当日、現地に着くと早速、多くのベテランに混ざって私も海岸線を行く遠乗りの仲間に入れてもらうことになりました。総勢15名程で、私は後ろから2番目、最後尾には初級者の私を見守るベテランの指導員がついてくださいました。

乗馬クラブを出てしばらくは、熊笹の生い茂る林の中の道なき道を進みました。途中、幾筋もの小川が流れていて、橋のある所もあれば、せせらぎにザブザブと入っていくようなところもありました。頭上に木が垂れ下がっている箇所もあったりして、頭をぶつけないように気をつけました。

しばらくして林を抜けると、突然目の前には広々とした海岸線が開けました。先頭の指導員が振り向いて、このまま海岸線を駆け抜けても大丈夫かと尋ね、私のすぐ後ろの指導員がOKサインを出しました。私の実力でもなんとか行けそうだということのようでした。

すると拍車がかかり、先頭の馬が一目散に駆け出しました。それに続いて、次々と一列に縦並びとなった馬たちが一斉に走り出しました。私の乗った馬も、私は何の合図も出していないのに前の馬のあとをついて駆け出しました。馬たちは波打ち際を全速力で駆けていきました。

乗馬クラブでは、並歩、速歩、駈歩は習いましたが、全速力で走る襲歩(しゅうほ)というのはまだ一度もやったことがなく、最初は面食らいましたが、とにかく振り落とされないように、必死に馬のリズムに合わせることだけに集中しました。

今、潮風を浴びながら、全力疾走で波打ち際を駆けているのかと思うと、顔が自然にほころんでしまいます。その日は奇しくも秋の天皇賞の日だったのですが、まるで自分が天皇賞のレースに出場しているような気分で、満面の笑顔を顔面に貼りつけてひたすら走りました。

何キロ走ったのか、ある地点に着くと、そこが乗馬クラブの休憩所になっているようで、馬を休ませ、私たちも馬から降りて海岸で少し休憩をとりました。

そして帰り道、休憩所を出た時にはまだ穏やかな午後だと思っていたのに、「秋の日はつるべ落とし」といわれる通り、海岸線を疾走しているとあっという間に日は落ちて、辺りは夕闇に包まれました。私はただ夢中で馬に乗っているだけでした。

前の方から時々合図の声が聞こえましたが、そのうち、日はとっぷりと暮れました。暗闇に蹄の音だけが聞こえました。いつしか海岸線を離れ、来た時の熊笹の林に入ったようでした。馬は漆黒の林の中を駈歩で行きました。足下から聞こえる音や感触で、熊笹や小川を横切っているのがわかりました。しかし、私の目には何ひとつ見える物はありませんでした。

そうだ、頭上に木が垂れ下がっていたと思い出し、できるだけ上体を低く保ちました。時々、馬が小川を飛び越すために低くジャンプをしました。馬の動きに体を合わせるようにしました。ここまで真っ暗だと、すべてを馬にお任せするしかなく、身も心も馬にすべてを委ねました。馬の温かい肌から安心感と信頼感が伝わってきました。

「北の国から」には、次のような五郎のセリフがありました。「馬ってものは夜もな、どんなに真っ暗闇でも、それからどんな吹雪の時でも馬にまかせてのっかってたら黙って家までつれてってくれる」 その言葉の通り、私は馬の背にただ乗っていただけで、無事に乗馬クラブに戻って来ることができました。生涯で最も楽しく、忘れ難い日の一日となりました。

◇ ◇ ◇

純くんと雪子おばさんを救った馬の持ち主は、皮肉なことに、風力発電などに頼らずに、ちゃんと北電の電気を引いてもらえと説得にきた杵次でした。

ある晩、五郎の家の戸を破るように一升瓶を下げたずぶ濡れの杵次が立っていました。「自転車で来たのか」とたずねる五郎に「馬ァもういねえからな」「今朝売ったンだ」といいます。「そうか。——とうとう売ったのか」と五郎が言うと、「今頃ァもう肉になっとるだろう」と答えます。

杵次は、ひとり語りのように続けます。「あの野郎、感づきやがった」 五郎が「あの野郎って——」と問うと、「馬よ」「今朝早く業者がつれにくるってンで、ゆんべ御馳走食わしてやったンだ。そしたらあの野郎——。察したらしい」「今朝トラックが来て、馬小屋から引き出したら、——入口で急に動かなくなって、——おれの肩に、首をこう、——幾度も幾度もこすりつけやがった」「みたらな」「涙をながしてやがんのよ」「こんな大つぶの——。こんな涙をな」

「十八年間オラといっしょに、——それこそ苦労さして用がなくなって——」「オラにいわせりゃ女房みたいなあいつを」「それからふいにあの野郎自分からポコポコ歩いてふみ板踏んで——トラックの荷台にあがってったもンだ」「あいつだけがオラと、——苦労をともにした」「あいつがオラに何いいたかったか」「信じてたオラに——。何いいたかったか」突然、杵次の目に涙が吹き出します。

そして立ち上がると一升瓶片手に表へ出て、雨の中自転車に跨ります。五郎の車で送ろうという申し出に答えず、雨の中姿を消します。

その翌日、からりと晴れ上がった雨上がりの朝、橋から落ちたと思われる投げ出された自転車、割れた一升瓶と共に、突っ伏した杵次が発見されました。既に、亡くなっていました。

◇ ◇ ◇

今から40年前には、押し寄せる近代化に対するアンチテーゼがよく語られましたが、令和の時代、インターネットの是非についての議論はあっても、電気の是非や、馬の是非について議論されるということはなくなりました。

ドラマの中では、五郎の従兄弟の清吉(大滝秀治)が吹雪の吹き溜まりから二人を救出した馬について次のように語ります。「あれがあの馬の最後の仕事か」「車や機械に追い出された馬が、最後の仕事に車の引き出しか」

そして杵次の葬儀の時に、土地を出て行った杵次の息子たちに向かって、清吉は次のように語ります。「お前らにはわかっとらん。やっぱりなンもわかっとらん」「お前らだけじゃない。みんなが忘れとる。一町起こすのに二年もかかった。その苦労した功績者を忘れとる。功績者の気持をだれもが忘れとる」「とっつあんはたしかに評判悪かった。しかしむかしァみんなあの人を、仏の杵次とそう呼んどったよ。そういう時代もむかしァあったンだ。それが——。どうして今みたいになったか」

「とっつあんの苦労をみんなが忘れたからだ」「忘れなかったのは、あの馬だけさ。あの馬だけとっつあんをわかっとった」「その馬を——。手放すとき」「その馬を、売ったとき——」 清吉の目に突然涙が吹き出し、絶句しました。清吉の妻と息子が優しく寄り添いました。

◇ ◇ ◇

田中邦衛さんが演じた黒板五郎が、私たちに示してくれた近代化される以前の生活は、いつしか人々の記憶から消えていくのだと思います。そこには貧しい生活とある種の豊かさがありました。

かつて田畑を耕したり荷物を運んだり建物を立てる時、粗末な道具しかなくて、馬がいなくては何もできなかった時代の筆舌に尽くせぬ苦労も、そして闇夜でも吹雪の中でも目が見えて、人を探し出したり、家へ帰ることのできる馬の賢さや頼もしさも、まもなく私たちの社会から忘れ去られていくのだろうと思います。

そういうことを改めて思い起こさせてくれたのが、ドラマ「北の国から」でした。田中邦衛さんのご冥福をお祈り致します。

(文中のセリフは『北の国から(前編・後編)』倉本聰著 理論社 1981を参考にしました)


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