225.学校の暖房

本稿は、2021年1月31日に掲載した記事の再録です。

小学校の暖房と言えば、真っ先に浮かんでくるのは「だるまストーブ」です。ストーブの丸っこい姿がだるまさんの形に似ているので、そのように呼ばれていました。

日直当番になると、ふたりがかりで大きなバケツを持ち、体育館の脇にある石炭小屋へ行き、大きなスコップで石炭をすくってバケツに入れ、教室まで運ばなくてはなりませんでした。小学校低学年の子どもにとってはなかなか重い上、二人三脚ではありませんが、二人の呼吸が合わないと、途中の廊下に石炭をばら撒いたりしてなかなか難しい運搬作業でした。

ぼんやりとした記憶では、1年生は6年生に石炭運びを手伝ってもらい、2年生から自分たちで運んだような気がします。

石炭ストーブに火をつけるのは子どもたちは出来ないので、担任の先生にやってもらっていました。記憶の底を探ってみると、レンコンにような形をした炭に火をつけて、それをだるまストーブの中に入れて火を起こしたように思います。休み時間や昼休みにはストーブの周りにみんなが集まっておしゃべりしていました。教室中に石炭のにおいが漂っていました。

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昭和41年(1966年)に私は小学校に入学しました。入学式の記念写真を見ると、私たちは木造校舎の前に三列に並んでいました。うしろには着物に黒い羽織姿のお母さん方が並んでいました。

思い起こせば、あの頃はまだ「父兄会」という言葉も残っていました。戦前の家父長制度の中で母親には何の権限もなかった時代の名残りでした。それでも私たちが小学校に上がった頃には「男女同権・民主主義の時代なので、これからは父母会、あるいはPTAと呼びましょう」という風潮になっていました。そういえば「保護者」という言葉は、少なくとも私が小中学生の頃には一般に使われることはありませんでした。

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私が小学校に入学した頃から、校舎が木造の古い校舎から鉄筋コンクリートの建物にどんどん建て替わっていきました。私は東京の西の郊外で育ちましたが、小学校1、2年生の時は木造校舎で、3年生になると鉄筋コンクリートの新校舎になりました。鉄筋コンクリートの校舎では石油ストーブになりました。

昭和40年代、日本の高度成長は小学校の校舎の姿をすっかり変えました。木造校舎の時は、トイレも渡り廊下を通って別棟になっていて。男女とも同じ建物で、まだ水洗にもなっていませんでした。トイレに暖房など想像もつかない時代でした。トイレの室内の気温は、ほとんど外気と変わりませんでした。

高学年の頃は、雪の日に雪合戦をして濡れてしまった手袋を石油ストーブの周りの安全柵にかけて乾かしたものでした。雪合戦の日も、男の子は半ズボン、女の子はスカートを履いていた記憶があります。その下はもちろん素足です。「子どもは風の子、元気な子」という言葉を最近はあまり耳にしませんが、あの頃は毎日のように言われていました。

中学生の頃も石油ストーブでした。生徒数が多過ぎて臨時のプレハブ校舎も建てられましたが、プレハブでも石油ストーブでした。

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高校でも石油ストーブでしたが、私の通っていた高校には「高校生には終日暖房の必要なし」という謎の掟があって、暖房は朝の1時間目と2時間目だけと決まっていました。その為、月曜日の朝に、2時間分×6日(土曜日の分も含めて)の石油が各教室に配られました。

ところが、野球部やサッカー部などの運動部の先輩後輩の力関係によって、1年生の石油は当然のように3年生に上納されるという暗黙のルールがあって、1年生のクラスは事実上、暖房はないも同然でした。

先生方もよくわかっていたのだと思いますが、誰も何も言わないので、とにかく暖房なしで1年生は過ごしていました。今思うと、どうして誰も何も言わなかったのだろうと思いますが、当時はそんなもんだと思っていました。親も何も言いませんでした。誰も親には言わなかったのかもしれません。

その代わり(?)3年生になると、少なくとも午前中はずっと石油ストーブに火がついていて、暖かい教室で授業を受ける特権が与えられました。

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高校のストーブで思い出されるのは、高校3年生の最後の期末試験のことです。

試験の時は、出席番号順に座席が決まっていて、その時私は廊下側の一番前の席で、目の前がストーブでした。休み時間に男子生徒が数人、ストーブに当たりながら「次の物理の試験が終わったら、もうすべての試験から解放されるんだよな〜」などいいながらたむろしていました。

そしていよいよ最終試験が始まりました。科目は物理でした。私は文系の私立大学志望でしたから、物理などは全く勉強していなくて、仕方がないので計算問題が並んでいる解答用紙のすべての欄に、ひとつ残らず「20」と書き入れました。ひとつくらいまぐれ当たりもあるだろうと思ってのことでした。

20、20、20...と書くだけですから、ものの5分もかからずに解答を終え、あとはぼんやりしていると、目の前のストーブの向こうの黒板に、なんと物理の公式が書いてあるのが目に飛び込んできました。前の時間にはなかったので、先ほどの休み時間にストーブにあたっていた男子が書き込んだに違いありませんでした。

しかし哀しいことに、私にはその公式の使い方がまるでわからないという、笑い話のような悲劇が待ち受けていて、結局解答用紙は20、20、20…のまま提出しました。

その公式に気づいた生徒がどれくらいいたのかわかりませんが、そのいたずらは先生にバレずに済んで、みんなめでたく卒業できました。ちなみに物理の解答は、本来は単位まで書かなければ点数にならないけれど、そうすると零点続出になるとの理由で、数字だけあっていても丸が貰えるということで、私も20が二つか三つ当たってくれて、なんとか赤点は免れることができました。

大学の暖房は、セントラルヒーリングでした。各教室の窓の下には、温水が流れるパネルヒーターが設置されていたことを覚えています。

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私は昭和41年(1966年)に小学校に上がり、昭和57年(1982年)に大学を卒業しましたが、この間、学校では一度もエアコンによる暖房を経験したことはありませんでした。さらにいえば、この16年間というもの、学校には冷房装置というものは皆無でした。夏場の気温も昨今のように連日35°Cを超える猛暑日が続くなどということもなかったので、なんとかなっていました。

今では、リモコンひとつでエアコンの快適な室温と、加湿器で潤いある湿度の中で暮らしていますが、祖父母の家では火鉢だけしかなかったことを思うと、随分時代が変わったものだと思います。


<再録にあたって>
今年の夏はとりわけ暑く、長い長い夏になりましたが、ようやく暖房が必要になってきました。この半世紀の学校の暖房や冷房を考えただけでも、私たちの生活はすっかり様変わりしました。実体験としての石炭ストーブや汲み取り式便所の記憶を持つのは私たちの世代が最後なのかもしれません。


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