122.紫煙と時代

本稿は、2019年11月23日に掲載した記事の再録です。

私の母方の祖父は、1892年(明治25年)生まれでした。作家では芥川龍之介、吉川英治、子母澤寛、詩人では堀口大學、西条八十、佐藤春夫、100歳を過ぎて活躍した双子のきんさん・ぎんさん、外国人ではユーゴスラビアを統一したチトー大統領や作家のパール・バック等と同年の生まれです。

祖父は87歳まで健康で長生きしましたが、生涯キセルを手放しませんでした。記憶の中の祖父は「煙草を嗜む(たしなむ)煙草喫み(たばこのみ)」でした。「タバコを吸っていた」というのとはニュアンスが違います。

祖父は、冬は火鉢、夏は煙草盆を前にして、キセルの先っぽにある火皿に刻みたばこを指先で丸めるようにして詰め、吸い口からおいしそうに一服し、ひとしきり紫煙を燻らすと、キセルを裏返して、火鉢や煙草盆の角にコンコンと打ちつけて燃えかすを落としました。その一連の所作は優雅なものでした。

私の父は1924年(大正13年)生まれでした。「ばぁば」の愛称で知られる料理研究家の鈴木登紀子さんを始め、政治家では、村山富市、竹下登、安倍晋太郎、金大中、ジミー・カーター、芸能界では、越路吹雪、赤木春恵、京マチ子、高峰秀子、春日八郎、乙羽信子、鶴田浩二、マーロン・ブランド、シャルル・アズナブール、マルチェロ・マストロヤンニ、チャールトン・ヘストン、作家では、安部公房、吉行淳之介、山崎豊子、吉本隆明、スポーツ界では、沢松豊、力道山等と同年の生まれです。

若い頃の父といえば缶ピースでした。オリーブの葉を咥えた鳩の意匠が施された紺色の缶は子ども心にもお洒落だと思いました。中に入っていたのは両切りの紙巻きたばこでした。父はピース缶から親指、人差し指、中指の3本で煙草つまみ出すと、2、3センチくらいの高さから机の上などにトントンと軽く落とし、紙巻きタバコの葉を整えてから火をつけていました。

火はマッチでつけました。1960年代は日常生活にマッチは欠かせない存在でした。お台所でガスに火をつけるのも、炊飯器でご飯を炊くのも、お風呂を沸かすのも、すべてマッチをすり、ガス栓をひねって点火していました。1970年頃にその多くがスイッチを押すだけで点火されるよう改良されていくまで、マッチの炎はとても馴染み深いものでした。

喫茶店のマッチも身近に溢れていました。当時、多くの喫茶店は独自に店名や電話番号、それに趣向を凝らしたデザインのマッチを準備していました。私が大学を卒業した1980年前半頃までそれが当たり前だと思っていました。駅前ではいつも誰かが宣伝用のマッチを配っていました。後年、マッチはティッシュペーパーにかわっていきました。

今振り返ると、21世紀になってからはマッチを見ることがなくなりました。そもそも炎を見ること自体がなくなってしまいました。IHの普及、市街地での焚き火禁止条例などで生活から炎が消えていきました。子どもの頃は家の前をほうきで掃いて落ち葉焚きするのは日常の光景でした。街角の石油缶やドラム缶での焚き火もすっかり姿を消しました。いらないものは庭の焚き火で処分したものでした。恋人からの手紙や日記帳を火にくべるなんていうのは、小説や映画には欠かせないシーンひとつでした。

マッチから話が脱線してしまいましたが、父がピースに火をつけると、私たち子どもは父に煙の輪っかを作ってくれとお願いしたものでした。父の場合はうまくできる時もあれば、うまくいかない時もありました。もっともっととせがんでいると「うるさいからあっちに行け」となります。時々は近所の煙草屋さんに煙草のお使いに行って、おつりがお駄賃になったものでした。

私の小学5、6年生の時の担任の先生は、1947年(昭和22年)生まれの男性でした。政治家では、鳩山由紀夫、ヒラリー・クリントン、芸能界では、ビートたけし、西郷輝彦、弘田三枝子、奥村チヨ、伊東ゆかり、岸部一徳、高田純次、千昌夫、加藤和彦、細野晴臣、布施明、森進一、ちあきなおみ、小田和正、西田敏行、根津甚八、デビッドボーイ、エルトン・ジョン、作家では、宮本輝、荒俣宏、沢木耕太郎、漫画家では、本宮ひろ志、弘兼憲史、大島弓子、池田理代子、蛭子能収、山岸凉子、スポーツ界では星野仙一、江本孟紀、森田淳悟、尾崎将司、塚原光男等と同年の生まれです。

担任の先生は休み時間になると、教室内で煙草を吸っていました。銘柄は空色のパッケージのハイライトでした。私たちはよく窓際の先生の席に行って、煙の輪っかを作ってとおねだりしました。先生は輪っか作りの名人で、十人くらいの児童に囲まれて、頬っぺたを人差し指で突つきながらドーナツのような煙の輪を連続で口からポッポ、ポッポと出してくれました。

あの頃、家庭訪問は道案内だと称して、先生の周りを7、8人の子どもたちが取り巻きながら各家庭を周りました。そんな道すがら誰が先生のハイライトを買うかでじゃんけんをしたこともありました。皆んな大好きな先生の役に立ちたくて仕方がなかったのです。その頃ハイライトは確か80円だったと思います。じゃんけんに勝った子が、背伸びして自動販売機にお金を入れてハイライトのボタンを押しました。

当時はどこでも自由にタバコは吸えました。多少の例外はあったかもしれませんが、基本的には、学校でも病院でも(教室・職員室・病室を含む)、映画館でも飛行機の中でも、道を歩きながらでもどこでも吸うことはできました。田宮二郎演じる財前教授もドラマ白い巨塔の中ではいつも煙草を吸っていました。

テレビのインタビュー番組では、タバコを片手にインタビューを受けている大スターの姿を目にすることもありました。

私は東京の郊外育ちで、小田急線沿線に住んでいましたが、子どもの頃小田急線の車内に「新宿⇔相模大野間は禁煙」というパネルが貼ってあったことを覚えています。つまり新宿から32キロの相模大野駅より先では自由に煙草が吸えたということです。当時東海道線などの座席が向かい合わせの電車には、座席の手すりの先や壁際に灰皿が付いていました。

1976年に初めて「こだま号」の16号車が禁煙車に指定されるまで、新幹線も全車両で喫煙できました。駅のホームは、国鉄も私鉄も地下鉄も新幹線も、どこでも喫煙OKでした。飛行機の中でも自由に煙草は吸えました。

当時の煙草は専売公社が売っていました。専売だったのは塩と煙草でした。煙草は塩に匹敵するほど、重要なものかと子どもの私は思っていました。皇居に勤労奉仕に出かけると、菊の御紋が入った恩賜の煙草が下賜(かし)されるとも大人たちは話していました。

高校生になるくらいまで、私は大人になれば男の人は全員煙草は吸うものだと思っていました。煙草には子どもから見れば大人への憧れが詰まっていました。駄菓子屋さんにはタバコのようなチョコレートが売っていて、先っぽの紙を剥くとチョコレートがあたかも灰のように見えました。子どもたちはチョコレートを一度は口に咥えて大人の真似をしたものでした。

また、煙草は異性への憧れを感じさせるものでした。多くの歌で煙草が歌われました。数々ありますが、幾つか拾い上げてみます。

1971年の五木ひろしのヒット曲「よこはま・たそがれ」の歌詞の冒頭です。

よこはま たそがれ
ホテルの小部屋
くちづけ 残り香 煙草のけむり
ブルース 口笛 女の涙
あの人は 行って 行ってしまった
あの人は 行って 行ってしまった
もう帰らない 
(作詞:山口洋子、作曲:平尾昌晃)

1973年の五輪真弓のヒット曲「煙草のけむり」の歌詞の冒頭です。

煙草のけむりの中に
かくれて見えない
あなたはどんな顔で
私を見てるの?
初めて会った時も
あなたは煙草をくわえ そして云った
「火をかしてください ぼくの暗い心に
火を灯してください あなたの赤いマッチで」
(作詞・作曲:五輪真弓)

1982年の松田聖子のヒット曲「赤いスイートピー」の歌詞の冒頭です。

春色の汽車に乗って海に連れて行ってよ
煙草の匂いのシャツにそっと寄りそうから
何故 知り合った日から半年過ぎても
あなたって手も握らない
I will follow you あなたについてゆきたい
I will follow you ちょっぴり気が弱いけど素敵な人だから
心の岸辺に咲いた 赤いスイートピー
(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂(松任谷由美の別名))

いずれも煙草という言葉には、異性への思いや憧れが込められていました。

これらの曲がヒットしている間に、父の両切り煙草は、いつしかフィルターの付いたタバコに変わりました。タバコによる健康被害がクローズアップされ始めた1970年代のことだと思います。さらに1980年代になると、マイルドとかライトなどをつけた名称のタバコが多く出回るようになっていきました。父は煙草の吸い口にニコチンフィルターをつけるようになりました。

日本専売公社は1985年に民営化されて日本たばこ産業となりました。尚、塩の専売法も1997年に廃止され、塩の製造販売が自由化されました。

とはいえ1980年代前半は、まだまだ男性の喫煙率は7割程度でしたから、就職したとき、応接室や会議室の灰皿や、上司の灰皿をきれいにするのは、私たち新入女子社員の重要な業務内容のひとつでした。お茶汲みやコピー取りとは違って、灰皿掃除は灰は舞い上がるし、吸い殻に水をかけるとニコチンのイヤな臭いがしましたが、それを拒否するという概念そのものがありませんでした。

21世紀になって「私、タバコ駄目なんです」などという表現に出会った時、私は軽い衝撃を受けました。私が新入社員だった当時には同じ台詞を口にするという発想はありませんでした。もしもそんなことを言ったら、それは職務放棄と同義語だと捉えられたと思います。今の時代に例えていうなら「私、パソコン駄目なんです」と言うのに近いかもしれません。いくら目に悪いからとか座りっぱなしで健康に良くないからと理由を述べても、事務職でパソコンが駄目なら「それなら明日から来なくてよし」と言われかねません。

明治時代から続いていたという恩賜の煙草も、2006年には廃止されました。恩賜の煙草も1968年までは両切りで、それ以降はフィルター付きになったそうです。恩賜の煙草は、今では恩賜の金平糖となったということです。

2018年に健康増進法の一部を改正する法律が成立し、2020年4月より全面施行されます。かつて炎が日常から姿を消していったように、タバコもそのうち姿を消していくのでしょう。すでに、子どもたちが昔のドラマや映画で登場人物がタバコを吸っていると「お母さん、あの人、タバコ吸ってるよ」などと顔をしかめるのを何度か目にしました。

私は子どもの頃、広島・長崎の原爆の日や、終戦記念日などに国を挙げて平和の尊さを願う大人たちの姿を見て、それほど平和が大切なら、なぜ戦争前にそのように言わなかったのだろうととても不思議に思っていました。父母にも祖父母にも何度もたずねましたが、納得のいく答えを得ることはできませんでした。

こうして煙草について考えると、子どもの頃の答えが自分の中に見つかったような気がします。「時代」それが答えなのかもしれません。当たり前だと思っていたことの価値観が、知らず知らずのうちに変化していき、気がつくと善悪が逆転してしまうこともあるのだと感じます。

もう何年も、喫煙可能な喫茶店に入ったりすると、煙いなぁ、嫌だなぁと感じます。昔はどれほど煙がもくもくしている喫茶店にいても煙いと感じたことはありませんでした。


<再録にあたって>
小学生の頃、競って先生のハイライトのボタンを押してから早半世紀経ちますが、この間、タバコの値段も変わりました。昭和45年(1970年)に一箱80円だったハイライトは、令和3年(2021年)10月には一箱520円となりました。ハイライト以外の銘柄もたばこ税の値上げに伴って多くは一箱500円を超え、庶民の嗜好品とは言えない状況となってきました。

タバコに関する自分自身の感じ方振り返るだけで、煙いかどうかなどの感じ方すらも、実は個人的な感覚というよりは、社会的な影響を受けるものなのだと思います。


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