227.授業参観日

昭和41年(1966年)に小学校に入学した頃、授業参観日のお母さん方の装いは、着物に羽織りでした。私の母も小豆色の訪問着に黒い羽織を着ていたことを覚えています。それでもお母さん方が学校に着物を着て行ったのは1960年代までで、1970年代になると、少なくとも私の育った東京の西の郊外ではすっかり見かけなくなりました。

授業参観日になると、先生方もちょっときれいなスーツなどを着て、話し方もほんの少しよそ行きの言葉になって、先生と生徒のやりとりもどことなく芝居がかったものでした。子どもながらに、みんなカッコつけているのがおもしろく感じました。

小学3年生の時の授業参観日に、クラスのある男の子のお母さんのことを、誰かが「おばあちゃんが来てるね」といったら、その男の子が顔を真っ赤にして泣き出してしまったことがありました。子どもはみんな自分のお母さんが若くてきれいであって欲しいと願っているのだろうかと3年生の私は考え込みました。なぜならその子だけでなく、自分のお母さんが若い子は、そのことを自慢げにしていたからでした。

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私にとって忘れられない授業参観の思い出は、5年生の時の父親参観日です。確か6月の父の日に行われたと思います。私のクラスでは、クラスの男子全員と参加したお父さん全員のドッヂボール大会でした。女子は大声で応援しました。

最初からクラスの男子の方が圧倒的に強くて、お父さんたちは上着を脱いでワイシャツ姿でしたが、運動量が全然違いました。クラスの男子がどんどんボールを取ってお父さんたちに当てて行きました。中には反撃する勇猛果敢なお父さんもいましたが、日頃の運動不足がたたってか(?)、見る見るうちにドッヂボールコートからお父さん方は姿を消していきました。

そして、最後にひとりコートに残ったのは、なんと私の父でした。

私の父は大正13年生まれで、同級生のお父さんのほとんどは昭和一桁生まれでしたから、おそらく最年長だったと思われます。その父が若ハゲ隠しの鳥打帽をかぶったまま、ボールから逃げ回っていました。父は決してボールを取ってそれを相手にぶつけるという攻撃はせずに、ただひたすら逃げ回っていました。

クラスの半分くらいの男子を相手に、ただ一人生き残った父の闘いは長時間繰り広げられました。父は真剣な眼差しで、手を真っ直ぐ伸ばし体をくの字に曲げてお腹スレスレにボールをよけたり、反対に体を弓形に反らして背中にすりそうなボールをよけたりしていました。

その格好は、娘の私から見ても相当おかしくて、父がジャンプしたり、身を屈めるたびに、あちこちから歓声やら笑い声が上がりました。いつに間にか私の父であることが知れていて、みんな「還暦子ちゃんのパパ、頑張って〜」と大声で応援してくれました。負けて戦力外になって外野にいる男の子たちからも「還暦子ちゃんのパパ、頑張れ〜」と声援が上がりました。

でも遂に、父も疲れ果てて逃げ切れず、ボールに当たってしまいました。それでも、父は伝説のドッヂボールプレイヤーとして、しばらくの間話題になっていました。それまで、私は父がそんなにすばしっこいとは知らずにいましたから、私自身も驚きました。父といえば、いつも製図や高校野球のトトカルチョのトーナメント表を眺めている姿しか知りませんでした。

今思い返してみると、私はそんな父を恥ずかしいとは思っていませんでした。思春期にさしかかる頃だったので、恥ずかしく思いそうですが、そんなことはありませんでした。先生からも「還暦子ちゃんのお父さん、凄かったね」と褒めてもらえて、なんとなく父のことを見直しました。ドッヂボールの授業参観(というより授業参加!)はなかなか良いアイデアだと思いました。

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もうひとつ忘れられない思い出は、6年生の時の授業参観日の帰り道のことです。授業参観の後、お母さん達は懇談会があって学校に残り、同じ方向に帰る私たち6人は、通学路の途中にある同級生のゆかちゃんちの敷地で遊びながらそれぞれのお母さんを待つことになりました。

ゆかちゃんのお父さんは大工さんで、おじさんはいつも耳の後ろに赤と青の鉛筆を挟んで、カンナで材木を削ったり、ノコギリで材木を切ったりしたりしていました。そのため敷地も広く、大きな秋田犬もいました。秋田犬は、鎖で繋がれていましたが、行動半径はかなりあって、可愛いけどちょっと怖い存在でした。

みんなで縄跳びをしたり、だるまさんが転んだをして遊んでいたら、突然、その秋田犬が私たちの方に駆け寄ってきました。理由は今もって不明ですが、突然のことで、私たちは叫び声を上げながら全員で母屋の玄関の方へ走って逃げました。その時なにかのはずみで玄関ドアにはめ込まれていたガラスを割ってしまいました。

ガッシャーン! という音が響き渡り、全員が茫然としているところへ、ちょうど懇談会の終わったばかりお母さん方が通りかかりました。ゆかちゃんのお母さんも一緒でした。私の母も、他の子のお母さんも全員いました。しばし状況把握に時間があったあと、ゆかちゃんのお母さんは、誰も怪我をしていないことを確認すると「何よりそれが一番良かった!」ときっぱり言いました。

その場にいたお母さん方は、もうみんな平謝りで、コメツキバッタのように全員が何度も何度も頭を下げて、すぐに弁償しますと謝りました。しかしゆかちゃんのお母さんは「子どものしたことだし、誰も怪我をしなかったんだから、もういいよ、うちで直せるし、弁償なんていいよ」と言いました。

私たち子どもも、大変なことをしてしまったと、言葉もなく反省していました。しばらくして、お母さんたちは、少し離れたところで、弁償するお金の算段をしていました。結局どういう結論になったのか細かいところまでは覚えていませんが、大工さんなので見積り金額もないだろうから、みんなでいくらずつ分担しようというような話でした。

あの時のお母さんたちの素早い対応も格好良かったし、何より大工のおかみさんのきっぷの良さはその場にいた全員の尊崇の念を集めました。授業参観そのものではないけれど、あの時のお母さんたちの対応は、何よりの教育のお手本のようでした。

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ゆかちゃんとは、中学校を卒業してからは細々と年賀状だけで繋がっていましたが、彼女が3人の子育てを終え、私が転職した頃からまた時々会うようになりました。先日、彼女のお母さんが亡くなり、玄関のガラスを割ってしまった時のエピソードを語り合い、若き日のおばさんを忍びました。ゆかちゃんも私のドッヂボールでひとり奮闘していたの父のことを覚えていてくれました。

もう半世紀以上前の思い出です。




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