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元不登校が42Tokyoに入学するまで

はじめまして!
42Tokyo Advent Calendar 2021 14日目を担当する在校生のmmasudaと申します。
この記事では小学四年生から不登校だった私が42Tokyoというパリ発のプログラミングスクールに入学するまでをお話ししたいと思います。

不登校になるまでの経緯

私は小さい頃から感情の起伏が激しくて、家では理由もなくいつも怒っていました。
幼稚園は、行きたくないと親の腕の中で泣き喚き、いざ幼稚園に送り出せば今度は帰りたくないと歩道の真ん中で暴れ回る、ちょっとというかだいぶ変わった子でした。
田舎だったので誰にも見られなかったのが不幸中の幸いなのですが、
普段人前に出る時はすごくおとなしくて、よく周りに良い子だと褒められていました。

小学校に通い始めてからは、それもだいぶ落ち着いて楽しく登校するようになり、友達も多く出来て毎日充実した生活を送っていました。
勉強面も宿題以外はほぼ勉強していないにもかかわらず、テストは毎回満点に近い成績で、先生からの評価も高く日々の生活で困っていることなど何もなく、本当に順風満帆に過ごしていました。

しかし、小学四年生の夏休み明けあたりからだんだんと体調を崩すようになり、学校をぽつりぽつりと休むようになりました。
ちょうどその頃運動会のシーズンで、周りに迷惑をかけることになるので出来るだけ登校するようにしていたのですが、そうするたび体に出る症状がひどくなり、登校しようとすると涙が出てきて体が動かなくなるようになりました。
医者に行っても体に異常はなく、自閉症スペクトラムの傾向があると診断されました。
今考えると何らかのストレスから、体に出ていたんだと思います。
それからは一日のほとんどを家で過ごすようになりました。


不登校になってすぐは、もちろん周りからの理解も得られず、親から毎日「なぜ学校に行かないのか」と問い詰められ、しかし私本人も行きたくないという感情が何で、どこからきているのか分からないので「分からない」としか答えられず、親も登校させたい学校側と行きたくないという子供の間に挟まれてとても辛かったと思います。

しばらく休んで少し動けるようになってきてからは、
学校の図書室で本を読んだり、空いている部屋を借りてそこで過ごさせてもらったりして、また学校に戻れるように体を慣れさせていきました。
それからしばらくしてほぼ教室に戻れるようにはなったのですが、新学期になり担任の先生が変わったことや運が悪いことに毎年校長先生やお世話になっていた先生が変わるなどしたことでまた一から事情を話し直すことになり、環境の変化などでそのうちまた登校が難しくなりました。
当時は世間でも不登校がほぼ知られておらず、学校でも不登校生が私しかいなかったので、手の空いている先生が対応するという感じで支援体制もきちんとしておらず、先生によって対応がバラバラでした。

私は不登校になった小四の夏から約二年間、ずっと学校に戻ろうと頑張ってきてもう心も体も憔悴しきっていました。
親は、これ以上体を壊して無理に登校させるよりも家で過ごしたほうが私の為に良いと理解してくれて、それから中学卒業までほとんど登校することはありませんでした。

家での生活

家では、学研のひみつシリーズが好きでそれを読んだりとかMinecraftをやったりしてました。
もちろん学校に行っていないと勉強面はボロボロなのでドリルを買ってきてやったりはしていましたが、軽いうつのようになっていたのであまり長い時間は出来ませんでした。
この頃は、ほぼ一日中パソコンをいじっていたのでそのおかげでPCにはだいぶ慣れて、パーツを買ってきて、父に手伝ってもらいながら自作PCを作ったこともありました。

情報系の道へ

中学卒業後は、通信制の高校に進学し週一で学校に通っていました。
小さい学校だったので先生もよく面倒を見てくださり、とても楽しかったです。

その後、ITに興味があったので情報系の専門学校に進学したのですが
思っていた勉強内容とは違い資格のための座学中心の勉強。
プログラミングの授業などはほとんどなく、もっとバリバリ実務的なことを学びたかった私は意気消沈してしまい、半年で退学しました。
その間にコンピューターサイエンスの基礎は学べましたし、基本情報などいくつかの資格は取得できたので決して悪くはない経験だったと思います。
しかし私はもっと実際に手を動かす勉強をしたくて、
退学後独学でプログラミングを始めました。

最初は、YouTubeやブログなどで有名なマナブさんの影響でフリーランスを目指して、ランサーズとかでたぶん一番案件が多いWeb系を学び始めました。
HTML、CSS、JavaScriptとかですね。
それをしばらく続けて、簡単なWebページ制作やたまに公募で賞をいただけることもありました。

42Tokyoの存在を知る

そんな頃にネットの記事で42Tokyoのことを知りました。

42Tokyoというのは、パリに本校がある42というスクールの東京校のことで、プログラミングやコンピュータサイエンスを基礎から学ぶことができます。

このスクールの特徴として大きく二つがあって、
一つは、先生がおらず生徒同士のピアラーニング形式で学習を進めていくことで、授業のようなものが存在しないのでいつどこでも勉強ができます。
一応校舎はあって、コロナ前は校舎のみでしか行えなかったのですが、
現在は基本オンラインになっているので家でもカフェでも勉強が出来ます。私は人の多い場所とか周りがうるさい場所で極端にパフォーマンスが下がるのでこれはすごく大きかったです。

もう一つが入学するためには「Piscine」という一ヶ月間の入学試験を受ける必要があることです。
「Piscine」というのはなかなか珍しいシステムだと思うのですが、
出題されるプログラミングの課題を受験者同士で協力したり相談しあいながら一ヶ月間解き続けて、それによって合格不合格が決まります。

このPiscineというのが私にはだいぶハードルが高かったのですが、それよりも、プログラミングを学ぶ上で私にとってこんなにいい環境は他にないと思ってすぐに応募を決めました。

実際にはPiscineの前にWebテストというものがあって、それに合格しないとそもそもPiscineへ参加もできないのですが、私は幸運なことにWebテストを通過することができて、Piscineを受けられることになりました。
(今はターミナルゲームというのをクリアすればWebテストをスキップできるようになったみたい)

Piscineは基本的に毎月行われていて、私は2月に受験しました。
Piscineの内容は公開してはいけないのでネット上にもほとんど情報がなかったのですが、C言語を使うらしいという情報を目にして、それから未経験だったC言語の勉強を始めました。


Piscine開始

当日までは不安でいっぱいでしたが、始まってからは周りの流れに乗せられるようにどんどん課題を進めました。
Piscine中は朝から晩までずっとパソコンに向かって、ご飯やお風呂の時間も削りながらずっとコードを書いてました。
毎日最低でも10時間くらいはやってたかな?
学生から現役エンジニアまで様々な経歴の方がいて、すごく新鮮な体験でした。
毎日初対面の人とコミュニケーションを取って、協力し合いながら勉強をしていたせいか、すごく生きている感じがして、全然苦じゃなくむしろ楽しかったです。
さすがに後半になると疲労を感じ始めましたが、たまに休息日を取りながら一ヶ月走りきり、終わったときには驚くほどプログラミングスキルがついていました。

合否の結果が出たのはPiscineが終わってから二週間くらい後でした。
そして合格をいただくことができ、今年の4月から在学しています。


現在

入学後も基本的にはC言語を用いてプログラムを書くのですが、アルゴリズムやシグナル通信・Webサーバの構築など多種多様な課題があってとても楽しく学習を進められています。
現在は海外大学のコンピューターサイエンス学部を目指して勉強中で、将来的には42Tokyoで学んだスキルを生かして世界で働きたいと思っています。
最近、42の他のキャンパスに移ることもできるようになったみたいなので挑戦してみるのも楽しいかも・・・と思ってます。

まとめ

不登校真っ只中の時は、この先どうなってしまうんだろうとか、このまま社会に戻れないんじゃないか、とお先真っ暗でした。
子供の頃は、家と学校が世界なので、一度学校という線路から外れたらもう人生終わりだと思ってしまいます。
でも、実際は学校以外にいくらでも道はあるし、勉強なんて後からいくらでも取り返せるので、とりあえず行きたくない時は休んで、好きなことをたくさんやって、毎日楽しく暮らせればそれでいいんじゃないかな。
それにそのほうがきっと幸せだと、私は思います。

さいごに

ここまで長い文章を読んでいただき本当にありがとうございました。

明日はnori26さんが「va_listってなんだ」について書いてくださる予定ですので、ぜひそちらの記事もご覧ください。

少しでも、不登校経験のある方や42Tokyoに興味のある方の参考になれたら嬉しいです。
では!

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