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俺の移住は「偏愛ストーカー」だ

東京の生活を捨てて広島県呉市に来て、丁度1年経過した。たかが1年、されど1年。たった1年前に自分で想像していたのとは、だいぶ異なる状況を謳歌している。

そんな1年間でも、頻繁に受けた質問はこの2つだった。

「なんで東京捨ててココ来たんか?」
「なんでココ(広島県呉市)なのか?」

質問を受ける都度、それらしく回答はしているのだが、質問者が納得して満足感を浮かべたことがただの1度も無かった。今回、改めて自分で振り返って言語化してみたい。

よくある誤解(先入観、決めつけ)

ここ数年で、国を挙げての運動のおかげか「地方創生」がブームになった。果たして実際にそんな金脈なのかは脇に置けば、世間に流通する言説だけ見れば、ある種のゴールドラッシュ的に見える。

このゴールドラッシュ文脈で地方を目指す人というのは、極めて都会的(合理的、意義追求的)である。何せ、彼らの物語から言えば、地方を目指すことには「意義があり」、地方を目指すと「耳目を集め」、運よくば地方を目指すと「金を生む」。典型は補助金コンサル屋であり、多くのワーケーション伝道師、多拠点居住屋がこれに該当するし、SDGsやソーシャルイノベーション文脈にもかなり多く存在する。

私に対しても、「これからは地方創生だ、と思ったからでしょ?」てな具合に、この手合いの一味と決め込んでくる人が多数いる。というか、まずほとんどの人がその決め込みで接してくると言っても良い。

そんなとき、私は当惑する。「あれ、期待通り、地方創生するんだ!とか言うべきだろうか・・」「ごめん、チホーソーセージそんな好きじゃない」と内心思いながら、無下に否定するのも憚られるので、「んー、まぁ、そんなところだ、と言えなくもないですね」などと答えてヘラヘラしていることが多い。

私は優しいので、いちいち否定しなくて良い他人の夢を、意味もなく壊したりはしないのだ(笑)。

①なぜ東京を捨てココに来たのか

では本当のところ、何なのか。それはズバリ、大好きなおばあちゃんの近くで居たい、的なことなのだ。

私の一族は、香川県に存在・ルーツを置く。

私の父方祖父は、香川県三豊市大野原町の養鶏業者の次男として生まれ、千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)で学んだ。次男で後継者でないため自ら身を建てることが必要となったが、頭脳明晰だったようで学問で身を立てることになったようだ。香川県観音寺市の伊吹島でいりこ漁師の娘だった祖母と結婚し、教師として満洲に渡って後に平壌へ移ったそうだ。敗戦後は南朝鮮に逃げ、米軍に保護されて帰国したという。

母方も香川県高松市の農家にルーツがあり、母方祖父は南洋から戻った後、国鉄(現・JR四国)のトンネル技師となった。母方祖母は小さな味噌屋の娘だったようだ。祖父双方に共通するのは、自らは貧しく学や技で身をたて、自分より裕福な出の家から嫁を取ったというところだ。学問することが比較的好きな私の特性は、両祖父の血なのかもしれない。

私の両親は、香川県高松市で高校までを過ごし、それぞれ東京の大学に入学した。そして社会人になる頃に見合いで知り合い結婚したようだ。そんな関係で、私は0歳児の頃から頻繁に、香川県高松市にある父・母それぞれの実家に滞在した。中学に上がるまでは毎年、夏休みと春休みをガッツリ祖父母の家で過ごしていた。母方祖父は自分の設計したトンネルを見せたかったのか、私を汽車(国鉄→JR四国のディーゼル列車)で四国の方々に連れて行ってくれた。

私はじいちゃん子・ばぁちゃん子だった。何せ、読売ジャイアンツのファンだったのに、母方祖母が間違って阪急ブレーブス帽を買ってきたことから阪急ブレーブス(現・オリックスバッファローズ)のファンに鞍替えした程だ。私はばぁちゃんをガッカリさせたく無かったので、内心は「巨人じゃないなぁ・・・」という落胆を感じつつも喜んで見せ、得意げにばぁちゃんの前で帽子を被った。そこから、本当に阪急ブレーブスが好きになったのだった。

高松は、四国は、瀬戸内は、私にとって優しいおばあちゃんの居るユートピアだった。一族が四国にいることもあり、自分は四国の人間だと感じ続けてきた。都会の合目的的な人間関係より、地縁血縁に基づくしがらんだ人間関係の方が心地良いような感覚も感じていた。そして40歳を過ぎた頃から、自分が本来居るべき、アイデンティティの寄る辺である四国に、身を置きたいという欲望が膨れ上がって抑えられなくなってきた。

そういうわけなのだ。

②なぜココなのか

それだけ、高松、香川、四国に依拠していながら、私は瀬戸内海を挟んで逆サイドになる広島県の呉市に来た。そのことがまた、皆様のご理解を難しくしている。

一言で言えば、「同じ瀬戸内ということで、良いっしょ?」だ。私の四国ノスタルジーの最大のアイコンが、香川県三豊市仁尾の蔦島海水浴場だ。私のノスタルジーは、蔦島の思い出の映像で最大化する。東京にいた頃から、「オレの70%は瀬戸内海の海水で出来ている」と言っていた位だ。

呉に初めて来た2020年7月、私は呉市倉橋町の桂が浜海水浴場で泳いだ。その時に感じた強い幸福感、それが呉にしようと決めた原体験の中で最大のものだった。

まぁ、ここまでは良さげな話だったが、他に消去法的な要素もある。一つは、コロナ禍の影響で香川県高松市の親族方を「出禁」になったこと。また前職の縁で移住先の有力候補だった徳島県の山合いでのご縁の中で、「んー、ここに居ても俺は輝かんな」と感じたこと。

倉橋での海水浴、高松の出禁、徳島での懸念の三要素が絡まった状態で、呉でのご縁に恵まれて2020年夏に「よし!呉に居着くぞ!」と決意したのだった。

俺の移住は、偏愛ストーカーみたいなものだ

なぜ東京を捨てて移住したのか、移住先はなぜ呉だったのか、その2つを反芻した上で思うのは、結局俺の移住は「偏愛ストーカー」的なものであるということだ。

何か社会的な意義があるからでも無い。儲かる儲けると思ってのことでも無い。地方ならどこでも良かった訳でもない。しかし呉には元々の由縁は何も無い。大好きなおばぁちゃんとの思い出の地によく似ていて、「瀬戸内」という大括りで「まぁ同じでしょ」と考え、特に地縁血縁も無い地なのに「運命の相手だ」と言い張って居着いている、というのが実際のところだ。

これが呉という土地だからまぁ良いが、呉がもし女子だったら・・・と思うとストーカーみたいで怖く感じるかもしれない。「全てを捨ててA子の近くにいる」と勝手に決め込んで、元の生活を捨てて近くに住み着く。しかも私はA子じゃないというのに「あなたはA子にそっくりだ。いや、僕に取ってはあなたはA子そのものだと言っても良い」などと言ってA子に接するように自分に接してくる。そんな偏愛者を想像してみると良い。

ここまで読んでいただくとお分かりになるだろう。私は「地方創生」なんか微塵も興味が無いし、そんなことを追求もしていない。もちろん、大好きな瀬戸内が元気になるのは嬉しいが、地方ならどこでも良い訳ではなくて、東北や九州や沖縄には何の興味も愛着も無い。瀬戸内に害が無く、瀬戸内に迷惑がなければ良くて、別に創業も創生も関心は無い。ただただ、一端の「瀬戸内の人間」になりたい。瀬戸内の良いことも悪いことも、当事者として関わっていきたい。できるならば、自分が幼少の頃に見たようなキラキラして繁盛していた瀬戸内になるよう足しになりたい。その欲望こそが、私の移住理由になっている。

なかなか1年間過ごした位で、一端の呉人・瀬戸内人にはなれないものだ。まだまだ、私自身の当事者としての鼻息の荒さに比して、周囲の受容含めた調和の取れた当事者としての確立には至っていない、というのが自己認識だ。石の上にも3年だ。焦らずに着々と、しかし野心を失わず、立派な瀬戸内人・呉人として当事者に成れるよう、明日からも過ごしていくつもりである。

Everyday is ワーケーション。仕事の甲斐も仕事外の愉しみも、ここでの刻一刻の全てに感じている。何かの補完や代替や代償では無い、自己完結型ワーケーションを日々過ごしている感覚だ。今の私にとっては多拠点居住やアドレスホップではダメなのだ。徹底的に呉・瀬戸内に身を浸し、徹底的に呉・瀬戸内を味わい、徹底的に当事者化していく所存だし、それが幸せなのだ。

なので、「色んな素敵な場所に行きたい」「もっとたくさんの場所・人と繋がりたい」的な指向は皆無だ。アドレスホッパーや多拠点居住者を、私はむしろ自分と真逆の指向の人たちだと思っている。なかなかその区別がされていないのだが、そこは大いにご理解いただきたいと思う。

とりとめない文章になったが、以上!

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