見出し画像

ピッチ雑感

昨日は、近くのまちに出掛けて、ピッチ大会に観客として参加してきた。私個人も、3年ほど前に、エレベータピッチの訓練をした時期があって、気づけばプレゼンよりピッチブーム?になっていて感慨深い。

6人ほどの登壇者のピッチを聞いて感じたことを、雑文になるが綴ってみよう。

ピッチとは

この「ピッチ」というのは、要するにショートプレゼンだと思えばいいのだが、発祥はシリコンバレーだそうだ。他人の支援を受けて何かを成したいイノベータやベンチャー経営者が、支援をねだりたい投資家・有力者がエレベータに乗る際に同乗して、エレベータが目的階に着くまでの数十秒で目的を達する手法「エレベータピッチ」から来ているようだ。

日本でエレベータピッチを実際やっている人も多いかもしれない。忙しい上司の出掛けをつかまえて、オフィスの外へ向かう上司に金魚のフンの如くくっ付いて行って伝えたいことを伝えリアクションをもらい、「では行ってらっしゃい!」とオフィスの戸口で見送る、なんてことはあるんじゃないだろうか。それが、エレベータピッチだ。

この他のピッチの形態としては、昨日私が参加したような、それ用に会議場が取られて議場で行い優劣を競うコンテストピッチなどがある。いずれの形態にせよ、数十秒から数分という短時間で、自分の言いたいことを伝え、欲しいリアクションを取りに行くという本質は一緒だ。

ピッチも上手いと下手がある

昨日、会場で複数の人のピッチを聞いて、改めて体感した。ピッチには、テクニックとして上手いと下手がある。つまり、技術があるということであり、訓練で上達し得るものだということ。

とはいえ、短時間に喋るんだから、早口言葉が上手い人がピッチ上手だろう、と考えるのは間違いだ。ここは非常に重要なポイントであり、目的は狙った相手に何かを伝えて、できれば欲しいリアクションをGETすることなのだ。決して、自分が喋りたいことを喋り切るのが目的ではないということ。

・・おいおい、そんなの昔ながらのプレゼン技法の頃から言われてるABCだろう、と思うだろうが、こんなABCこそ、意外と多くの人が出来てないことが分かる。皆、冷静な時は頭で理解しているはずなのだ。しかし、聴衆の目線に晒されて多くの人の前に立った時に、頭で理解してたはずのことを体現できるかというと、出来ない人が多いということなのだ。

この辺は、スポーツと同じだと思えばいい。理想の投球フォームを理屈で理解して頭に入れても、自分の身体でそれを表現して実際に良いボールを投げられなければ、それは「分かってない」「出来てない」になる。プレゼンやピッチで、喋りたいことを喋るんじゃなく、狙った人に伝えたいことを伝えて、欲しいリアクションをGETしに行く、というのも全く同じなのだ。

それに、分かっているつもりで実は分かってない人も多い。例えば、「プレゼンてさー、自分が喋りたいこと喋ってるだけじゃダメだよね。誰に、何を聞いてもらうかが大事だよ」というやつが居たとして、そいつに聞いてみるといい。「んで、お前は今日、誰に何を聞かせに来たの?」
そこにスパッと即答が出来ない人が、非常に多い。言葉尻で分かった気でいても、実は本当のところ全然分かってない、というのは陥りがちな危険だ。

分かってても出来ない?練習と覚悟あるのみ

仮に本当に分かっているとしても、まだ出来ないこともある。なぜかというと、これもスポーツと一緒だ。練習不足で身体できちんと表現できるレベルまで頭脳と身体が一致させられていないことも考えられる。また、不安や恐れなどに囚われたり、逆に注目されて舞い上がったりして冷静さを失っていることも考えられる。

正しい理屈を頭に入れること。次に理屈にあった理想像を描き、次にそれを自分の身体で着実に表現できるレベルに反復練習すること。そして覚悟を決めることで動揺せず冷静に本番も動ける心的状況を確保すること。これが大事だ。

ところで、覚悟を決める、というのは、「よしっ、覚悟を決めるぞ!」と考えて決まると思ったら大間違いで、そんなものでは決まらない。いわば、「背水の陣を敷く」という言葉の如く、決死の覚悟って奴にならなければ、本物の覚悟は決まらない。「結果は自分にはコントロールできない。でも、ベストは尽くして、失敗したとしても後悔だけはしないぞ!やるだけはやり切った、と言えるようにするぞ!」と決意しなければならない。

すなわち、覚悟というものは、日頃熱心に取り組んでいないと、そんな簡単には決められないという性質があるのだ。

ピッチの哲学

ピッチも技術があり、訓練で上達するものだ、とは言った。が、その根底には哲学みたいものがあるように私は捉えている。何事もそうだが、技術の根底に流れる哲学を肚落ちしてる人は、技術はさっさと楽に体得できる。というか、日頃の別の行いで、もう既に習得していたりする。ところが、この根源が分かってない者は、技術習得も苦痛と困難を伴いなかなか技術が身に付かない。

では、ピッチ技術の根底たるものは何か。私は、「時間こそ至高の希少資源だ」という哲学だと思っている。このことさえ肚から分かっていれば、自ずとやるべきことが見えてくるのだ。

ピッチの構図を、金や人脈や技術を持っている「おねだりされる側」の目線で言えば、こういうことだ

「俺は忙しい。時間は金じゃ買えない天賦の唯一無二の資源だ。俺におねだりしに来てる奴に、なぜ10分も割かなきゃならんのだ?45秒だけならやろう。その中で何とかせぇ!」

ま、そういうことなのだ。あなた如きに、もらえる時間は数十秒からせいぜい2・3分。どうしても言いたいことがあったら、その中でなんとかせぇ、という。

忙しくてイライラしている富豪か、暇を持て余す神々か

同じピッチでも、誰に披露するかによって、こちらの構え方も組み立ても変わる。簡単に言えば、「忙しくてイライラしている富豪」なのか、「暇を持て余す神々」なのか。

本来、エレベータピッチの由来を考えても、ピッチは「忙しくてイライラしている富豪」相手のものだ。
「俺に何の用だ!?」

ところが、コンテストピッチが流行ったおかげで、またTEDなどの影響もあろうか、暇を持て余す神々の遊び的な色合いが入ってきた。もちろん、ビジコンなどはそれで金や人が動くので遊びじゃないのだが、エンターテイメント要素が要求されるようになってきた。情感に訴えるような技法も取り入れられ、「心を動かすエンタメショー」的な色合いが混ざってきたのだ。

ごめん、俺は、金持ってないけど、イライラ富豪だぜ

さて、話を、私が昨日参加してきたピッチイベントに戻そう。参加していて感じたのは、エンタメショーな要素に重きを置いてる登壇者が多いな、と感じた。それも、エンタメショーを道具にして結果を取りにいくというより、ショーに酔いしれる自己満足が強かったのだ。

情感を煽るような強弱の付け方、話の取り回し、キャッチの入れ込み、スライドのデザイン。「どう、面白いでしょう?俺のショーに虜でしょう?」的な欲が前に出てくるのだ。この場の満足と、「あの人はピッチが上手だね」という評判が欲しくてやってるのかな?と。

私はそういうピッチを見て、イライラしていた。そう、私は、大して金も持ち合わせてないくせに、心境だけは、多忙でイライラしている大富豪気分なのだ。

「お前は俺に何をして欲しいんだ?」「お前は俺の支援を貰ったら、何をどうしたくて来てるんだ?」そこが一向に見えないまま終わるピッチを見て、壇上でどれだけスピーカーが満足げでも、俺は侮蔑と憎しみを込めて、「お前何のために俺様の貴重な時間を奪ったんだ」とご立腹なのだ。

ビジネスピッチである以上、何かを達成したくて、そこに誰かの何かを貰いたくて、やるはずなのである。それを自分でも分かってなくてショーマンシップで酔いしれているピッチ芸人は、そのピッチ芸人稼業の先に何があるのか、よくよく考えて、ピッチに対する距離感を見直した方が良いのではないか、と僭越ながら思う次第。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?