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「手抜きの誘惑」に負けないこと

手抜きはいくらでもできるが……

駆け出し時代に自分が書いた原稿を読み直すと、そのヘタさかげんに驚く。と同時に、わずかずつでも自分の技量が進歩していることを確認して、ホッとする。
 
書き続ければ、テクニックはおのずと上がっていく。10年書き続ければ10年分うまくなる。それは確かなことだ。
ただ、そこには一つの陥穽がある。それは、テクニックの向上が悪い方向に表れてしまうライターも多いということ。悪達者になり、手抜きばかりがうまくなってしまうのである。

ライターというのは、手抜きをしようと思えばいくらでもできる仕事だ。
極端なことを言えば、映画を観ないで映画評を書くこともできるし、取材に行かずに取材記事を書くこともできる。「そんなバカな」と思うかもしれないが、できるのである。

たとえば、試写会に行かず、映画配給会社が用意しているプレスシート(見どころなどを紹介した広報用パンフレット)を見て、いかにも映画を観て書いたような原稿をデッチあげることが可能だ。

また、話題の新商品を紹介する記事を書く場合、本来ならその商品を開発した企業にまで出向いて取材すべきところを、取材抜きで書くこともできる
(「技術的には可能だ」という話で、そういうことを私がやってきたわけではない。念のため)。
 
また、相手に会わずに電話取材やメール取材で済ませてしまう、という形の手抜きもある。
ただし、編集者からあらかじめ「電話取材でいいですから」と言われることもあるし、相手が電話取材を望むケースもある。そうした場合は別だが、そうでないのに電話で済ませるのはやはり一種の手抜きであろう。

手抜きをするにも、当然それなりの技術が必要だ。駆け出しがやってもすぐに編集者に見抜かれてしまう。しかし、ベテランライターは上手に手を抜くから、よほど手練れの編集者でなければ見抜けない。

手抜きをすると「卑しいライター」になる

しかし、見抜かれなければ手抜きをしてよいというものではない。
手抜きを覚えると、ライターとしての品性が卑しくなる。手抜きをするという安易な道を選ぶと、それがクセになって全力投球の仕事ができなくなるのだ。
また、せっかく向上した技術がもっぱら手抜きに使われるとしたら、何ともムナシイではないか。

「手抜きの誘惑」は、ライターの仕事のあちこちに潜んでいる。
「時間もないし、原稿料も安いし、まあいいか」と、ついつい手を抜きたくなる場面にしばしば遭遇するのだ。

たとえば、取材準備の手抜き――。
取材前にはじっくりと下準備をし、質問も念入りに考えて臨んでいたライターが下準備を怠るようになったら、それはやはり手抜きだろう。

困ったことに、キャリアを積むと取材や原稿のまとめ方もうまくなるから、多少下準備に手を抜いてもそれなりの取材はでき、それなりに整った原稿が書けるようになる。だからこそ手抜きがしたくなってしまうのだ。

「技術が向上したからそのぶん手抜きをしよう」と考えてしまうライターと、技術が向上しても手抜きをしないライター。5年後、10年後に生き残るのはどちらか? 答えは言うまでもない。

キャリアを積むほど多くなる、「手抜きの誘惑」。それを逐一しりぞけて、技術の向上を原稿の質の向上に結びつけるライターだけが、1ランク上に進むことができるのだ。

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