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ぼくの今までの人生と絵の話を聞いてほしい。

これは自分語りで、言い訳で、愚痴で、逃げで、けれど口にすることで少し希望に変換したいみたいな、そんなテキストなので、そういうものを見てもぼくのお友達をやめたりしないよ、あるいはあんたのことなんて欠片も知らないけど付き合ってやるよっていう人だけが見てください。このテキストで友達減らしたくない。
聞いてほしいって言っておいてあれだけど、面白い話ではないんだ。残念ながら。

ぼくは、工学・情報系を修めつつ絵描きも兼ねる父親と、絵も描くが基本文字書きの母親の間に産まれた、オタクのサラブレッドというやつである。
それ自体はわりといい話だ。まだまだ世間の風当たりが強い頃に産まれたぼくだが、その中を生き抜くために仲間と狭く深く付き合うタイプの交友を持ち続けた両親だったから、周りは理解ある大きなお友達ばかりだ。
当然というか、必然的にぼくはアニメや特撮やマンガやゲームから『離れていかない』生活を送った。これはオタクになった、オタクとして育てられたというより、「お前まだアニメとか見てんの?」という学校やその他コミュニティからの"圧"を、一切受けない、あるいは受けたとしても絶対の味方である親や周囲の大人がすべて否定してくれるという環境である。

なので、何歳だろうが好きなものは移ってはいくものの、ずっと好きだった。移るとはジャンル変遷の話だ。セーラームーンが幽白になって幽白がHxHになりマンキンになりライパクになりフォーチュンクエストになりアンジェリークになっただけなのだ。その間にもめっちゃ挟んでるが割愛する。
そして、マンガやアニメやゲーム、つまり動く動かぬは一旦おいて『絵』の世界に常に身を浸していたぼくは、自然と絵を描きたがった。
が、それと同時にラノベや児童文学も触れていたので、文章表現にも興味があった。なにせ文章表現については、アニメ的なイラストと違って、国語の授業という客観的な評価ポイントがあるので、やることに意義を感じていた。
次第、ぼくのノートはキャラ設定と小説、みたいな方向性になっていく。

さて、風当たり強しといえど、じわりじわりとオタクの市民権が得られつつある2000年代。
ぼくが中学に進学したころだ。そして、進学してなおそうして絵を描いているような面々は、いつの間にかちいさなコミュニティを作るようになっていた。
奇しくも、児童のメンタリティなどが重視される時代になりはじめ、カウンセリングルームなるものが学校に配されるようになったころだ。若干クラスで爪弾きものになりつつある『オタク』たちは、そこに安住の地を得た。
たまにマジのカウンセリング面談が入るときを除き、我々はそこに集い、やれどのアニメが面白いだの、どのマンガがアツいだの。クラスでおおっぴらにするにはちょっと浮きがちな話題を堂々と出来ただけで天国のようだった。ある意味、児童のメンタルの支えとなっていたので、このカウンセリングルームは正しく機能していたのだろう。

けれど、そこが人生の分岐点でもあったんだと思う。

カウンセリングルームに集まった面々は、そういうやつを選り集めたのかと疑いたくなるくらい、飛び抜けて絵がうまかった。
小〜中学生の可愛い絵だね、というレベルで絵を描いていたのはぼくと、もうひとりくらいしかいなかった。そしてそのひとりは転校してしまったので、実質ぼくひとりだった。
そしてみんな筆が速かった。下書きも資料もなしでジャンプの模写かと思うイラストを数分で描く子とか、ギャルゲの観察を重ねた結果むっちむちセクシーな女の子を描くようになった子とか、3次元にハマりバンドメンバーの顔をうまくイラストに落とし込んだうえ様々なポーズやデフォルメ調のミニキャラも描きこなして推しCPの漫画を量産し続けた子もいた。ちなみに全員女の子だ。
シャーペン、色鉛筆、コピー用紙、ルーズリーフ。それなら学校にいつでもあったし、練習する時間もきっといっぱいあったのだと思う。
中学生の価値観だ。友達の描く絵に対価を払うなどと考えもせず、ぼくはリクエストをすれば絵がもらえたりする環境にいた。幸せな気がしていた。
だけどある日、事件が起きた。
普段と何一つ変わることのない、いつもの毎日の、時間にして5秒もない一言。

「へえ、あんたも絵がうまくなってきたじゃん」

その言葉を聞いた時、ぼくの心が変なかたちに折れた音がした。
本人は、本当に、何も悪気はなく、シンプルに、ぼくの絵がよかったからそう言ったんだと思う。普通に褒めてくれたんだと思う。
だけどぼくの中に去来した感情は、『ああ、ぼくはこの集まりの中で下に見られているんだ』という絶望的な認識だった。
それを言ったのは、一番の友人だったのがなおさら重かったんだと思う。ちなみに3次元にハマった、の子だ。
誕生日が8ヶ月違うだけで、家が隣で、小学校も同じ、班を組んだらいつも同じ、中学も同じで、クラスが変わってもカウンセリングルームで毎日会う。本当に生まれたときからずっと何もかもを共有しあってきた友人だった。だと思っていた。
ちがったんだ。
対等だと思っていたのはぼくだけだったんだ。
いや冷静に考えればそんなことはない。それからも付き合いは変わらなかったし、毎日笑いあった。対等だったろうし、向こうもそう思っていた、と思う。
だけどそのきしみは、言われてから20年以上経った今もギシギシと音を立て続けている。
この瞬間に、ぼくは『自分は絵が下手だ』と頭の中に看板を立てた。

原点に立ち返れば、両親も絵が描ける。それも、キャッチーなポイントイラスト的なものではなく、マンガ的、アニメ的な絵が描ける。
両親の友人は、まったく創作をしない買い専か絵師だったので、どうしても目にはいるイラストは子供の目から見てもうまかった。
描きたい絵、目指したい絵をがんばってもがんばっても、周りのすべての絵を描く人間の絵が、遥か上のレベルにいる。
そして、大人だけでなく、同い年の、隣の家に住んでいる子にまで、下と言われた。
その状況は、子供の心を折るには充分だったのだと思う。

幸か不幸か、ぼくは文章表現の方にも興味があった。母親も主戦場はそちらだし、周りはみんな絵に打ち込んでいて、SS二次創作をやっている人間はいなかった。
こっちならやれる、という方向に舵を切る。
今となっては本当に本当に忘れたい過去だが、二次創作を書いてA4コピー用紙に印刷し、学校に持っていって友達に読んでもらったりもした。しかし絵よりはいい評価がもらえたので、自分の道はこっちなんだ、という手応えを得る。
文章で何かを伝えるのもイヤではなかったのだ。こうして自分の日記を延々と何千文字と書けるのもおそらくそういうところから来ている。

折りよく(よく?)個人サイト隆盛期。
我が家には情報系エンジニアの父がいたので、ぼくが未就学児の頃から家にはPCがありおもちゃのように触って過ごしてきた。
HTMLの存在を知り、試してみる。ブラウザ上ですぐに結果が出るインタプリタ言語のレスポンス性と、HTMLの手軽さ、引っかかることがあったり、やってみたいことがあるときに父親に相談すればたいていアイデアをくれる、という環境が相まって、個人サイト作成にのめり込んだ。
書いた二次創作SSを流し込み、素材屋さんのフリー素材を拾ってきてスタイルシートでいい雰囲気に配置して背景や文字色を整えれば、自分で絵が描けなくてもグラフィカルで見栄えのいいサイトが作れる。
CGIゲームなんかも流行った頃のこと。ソースコードに抵抗感がなかったので、中を覗いて改造して書き換えて……結果望みのことが反映されたときは本当に嬉しかった。
その派生でHSPでゲーム制作なりツール制作なりをはじめたり、だんだんと他のサイトにも足を運ぶようになって、学外の交遊が生まれた。カウンセリングルームには毎日向かっていたが、それはそれとして帰ったあとも楽しい時間は過ごせる。
絵を描かなくたって何にも問題はなかった。
絵を描かなくてもSS書ける。絵を描かなくてもサイト作れる。絵を描かなくてもプログラム書ける。絵を描かなくてもなりチャはできる。

という状態だったものの、絵が嫌いではなかったし、なによりまだはっきりとは折れた自覚がなかったのもあって、下手なりにがんばろう&オタクコミュニティを求めて、高校ではイラストレーション部に入った(文芸部とも兼部していたが)。
間違いなく、そこにはコミュニティがあった。他の部から顔を出してまでオタクトークしたい面々も加えて、ワイガヤの祭りの日々だった。なお全員女子だった。中学から通してなぜ男子がいなかったのかは本当にわからないが、ジャンプマンガの女子人気がうなぎのぼりだった時期、という影響はあるのかもしれない。

高校では一緒に様々な黒歴史も作ったが、ありがたいことに相方がいた。
ひとつ上の先輩だったが、毎日お互い会い、どころか毎時間のように手紙(という名の交換日記のような、ルーズリーフに適当なその場の感情と、らくがきをごちゃまぜにしたもの)を交換していた。
その子に創作意欲を押されて、この頃は結構絵を描いた。下手だと思っていたし、到底満足はしなかったが、でも絵を描いた。個人サイトに、絵を載せるようになった。

が、同時にやはり、劣等感も感じていたような気はする。
というのも、同学年がやっぱり選り集めたんじゃないかというようなメンツばかりだったのだ。
緻密で繊細な絵を描きつつ、小説を書かせても読ませる文体のひとり亜城木夢叶みたいなやつもいたし、若干の毒と勢いを兼ね備えたうえで人を惹きつけるマンガを描く新妻エイジみたいなのもいた。
そこを二大巨塔に、ポップでキャッチーなクリップアートみたいなタッチでさらっとイラストをキメるタイプの絵師もいれば、絵は丸っこい感じでそこまででもないが、キャラ立てと萌えに振り切り部内で二次創作が作られるようなタイプの一次創作者もいた(というか、基本高校のイラストレーション部は一次創作メインだった)。
でも、まだ自分の主戦場は文章だと思っていた。
イラストレーション部のほうは鳴かず飛ばずだったが、文芸部のほうで書いた短編小説にいくつか感想をもらったりするようになっていたのだ。
それをきっかけにうちのこ絵をイラストレーション部からももらったりして、今なお家宝にしている。
そんな状況だったからなのか、絵が周りよりうまくなくても割り切れるもので、高校の同級生とは本当に仲が良かった。
カラオケで8時間歌いながらノート持ち込んで絵を描いて、翌日もバカ話で盛り上がるみたいな繰り返し。結構人生の黄金期だったと思う。黒いこともしたけど。

大学に入るときに、一念発起自分用のノートPCを買うことになり、絵も描きたいからと、ノートPCの液晶を畳むと液タブになるPCを買ってもらった。
それから毎日絵を描く……なんてことはなかったのだが、それでも描こうと思えば描ける環境。
ぽつぽつとトレス絵なんかを残し、やる気のあるときには動画作るのに一日一枚絵を描いたこともあった。
でも、やっぱり主戦場は文章だと思っていた。
動画に必要だったから、なんとか描けないことはないから絵を描いたのであって、うまいと思ってはいなかったし。
そのころはメインで籍を置いていたジャンルは人狼、RO、世界樹の迷宮。
人狼はRPで、ROはチャットで。文章に比重をおいた遊びを知って、どんどん絵を描かなくなっていった。
世界樹はイラストももちろん需要があったが、結構な割合で小説も歓迎されるジャンルだったりしたのだ。キャラメイクからはじまるゲームなので、プレイヤーごとの『ストーリー』を求められる傾向だった気がする。
サイトも運営していたし、同人誌も小説で出した。某PBWのマスターの営業なんかが来たりした(仕事で文章書きたくなくて断ったが)。文書きだ、と確実に自覚していた。

極めつけは、液タブPCを破損したことだ。
液晶を、母親が不注意で割ってしまった(在庫の箱を落とした)。
ノートPCは機体の入れ替わりも早く、また結構奮発して買ったPCだったため、新しく買ったPCは普通のノートPC(というにはゲーム用にそこそこスペックはよかったが)だった。
このころにはゲームとTwitterがあれば、面白い経験体験が手軽に得られたし、RP村でロールを打ち合うことで、キャラを動かす創作意欲を満たしていた。
オフ会に頻繁に足を運んで、人と会って喋って満たされもした。ついでにイラストを描いてもらったりした。
自分の手からどんどん絵が離れていって、その間もフォロワーやRTでまわってきためちゃめちゃすこな絵を見て、ぼくの中で絵は『下手』から『描けない』にランクダウンした。
諦めたくなくて、スマホをGalaxyNoteにしていた時期もあったが、主に絵を描くではなくパズルゲームの操作にペンを使っていた。GalaxyNoteシリーズが日本にスムーズに入ってこなくなって、その足掻きも終わった。

すると、本当に描かなくなってしまった。
「こんな絵が描けたらな」と夢想はしながら、「でも描けないからな」の脳内ひとことでシャットアウト。
頭の中で自キャラのイラストのイメージを描きながら、「けど無理だし」でおしまい。それを考えずともロールプレイを書くことはできるし、返事を享受することもできる。
人狼RP村、多いときは年に20村とか入っていたから、アウトプットしたい心は満たされていたんだよな。

でも、きっとこれは間違っていたんだろうなって、つい最近、本当につい最近思ったんだ。なんとここまで来てようやく本題なんだ。待たせてすまない。

そう思ったのは2ヶ月くらい前のことだ。
PC壊してから絵描かなくなって、それが間違ってたって気づくのが2ヶ月前ってのがとんでもないが。
この間、せめてGalaxyNoteを持っていた頃から数えたとしても、最後にまともに絵描いたの2013年の7月なんですよ。8年経ってたわ。

ここからは各方面の、すべてのクリエイターにかなり失礼なことを書く。今は目が覚めているので、反省後だと思って受け流してほしい。

ぼくは、とにかく絵以外のことを何でもやろうとしていた。
"絵が描けないから"小説をやろうと思った。
"絵が描けないから"CSSを勉強しようとした。
"絵が描けないから"プログラムを覚えようとした。
"絵が描けないから"歌をうたってみたいと思った。
"絵が描けないから"作曲っていうのはどうだろう。
"絵が描けないから"ビーズやレジンでハンドメイドをしよう。
"絵が描けないから"仕上がりきれいな刺繍も楽しそう!
"絵が描けないから"ミニチュアを作ってみたい。
"絵が描けないから"ドール服なんか作るのはどう?
"絵が描けないから"せめて字がきれいになりたい。

自分の中にあるリビドーに蓋をして押さえつけた状態で、だけど何かを表現する側の人間であり続けたくて、とにかく何かをやってみようとして、手を出してみては「うまくできないな」「面白くないな」と思っていた。
なんだってやってみなきゃうまくなんてならないのはわかっていても、"今"表に出せなきゃどうしようもない。だって"今"何もできていない、作り出せていない自分が嫌なんだ。
そう思って足掻きながら、そして見る専買う専になっている自分に甘んじながら、8年、否中学校時代の折れから数えれば20年ほど、逃げ続けていた。

それが逃げだったのだと気づいた、自覚したのが、たった2ヶ月前って話なんです。
きっかけが何だったかと問われると、なんだろう。1年くらい前中華液タブ安いなって思ったあたりかな……ぼくが一番絵を描いてたのが、高校〜大学入学くらいの時期で、その頃って液タブがあったな、液タブあった頃が一番絵を描いてたなって。今のお絵描きソフトならちょっと高機能だったりして割と思うままの絵が描けたりしないだろうか、なんて(幻想)。
本格的な液タブやiPad買う勇気はないけど、中華液タブくらいの値段なら失敗してもいいくらいの収入のある人間になれてた。
割とここ直近になって、Skebで絵をお願いするとか、Picrewで好みの顔を作るとかで欲を満たすことができたっていうのもあるかもしれない。
つまり、自分のキャラクターを生み出す喜びに気づいちゃった、思い出した、みたいな。

でも、きっかけが1年前にあっても、買うならこの液タブ、と決めても、買えなかった。
今までの"逃げ"の経験の中で、「うまくできない」と「手を出すだけ出して飽きる」を繰り返しすぎていた。
液タブがあれば絵を描くなんて幻想じゃないか。買うだけ買って満足するんじゃないか。あんた今Twitterばっかやって買ったゲームすらたいしてやらないじゃないか。時間の使い方が雑すぎる。目先のことにとらわれる癖が抜けなきゃ、真摯に絵に向かうなんてできるものかよ。
金をドブに捨てるくらいなら買えない。液タブで絵を描きたいと思っても、クリスタを触ってみたいと思っても、蓋をし続けた人生は、ぼくを押さえつける。

半年くらい前にぼくが書いた短歌を見ると『続かない趣味ばかりをばまたはじめ道具ばかりが増える一方』とある。
これは"逃げ"のひとつとしてスクラッチアートのセットを買ったときの短歌なのだが、同時に「だから絵もはじめられない」と思っていたのを覚えている。
ぼくにとって『はじめる』とは『飽きる』の枕詞になっていた。最低でもこの8年間、ほとんどすべての趣味に飽きてきたからだ。
この"逃げ"にひとつだけよかったことがあるとすれば、世の中のクリエイターや表現者にめちゃくちゃ敬意が湧いたことだ。とにかくみんなすごい、と真剣に思った。なんてことない顔をしてこれらを生み出し続けている彼や彼女らの行為が、どれだけの思いを要するものなのかとひたすらに尊敬した。
尊敬するがゆえ、「自分はああはなれない」と線引きしてしまう、距離をとってしまう原因にもままなり得たのだが。

こんな話を、ぽろっと夏ごろに人に話したのが、本当のきっかけである。8月の末であった。
「買うか迷ってるけど、買っただけで満足しそうで買えない」ざっとかいつまんでそんな話。あと、買おうと思ってる液タブが尼のセール対象になると1万弱引かれることがあるのでそれを狙って時々様子を見るがいつも逃す、みたいなことも話した気がする。
だが、オタクというのは人の購買欲を煽るのが好きな生き物だ。特に、買わない理由が金額だけの場合はなおさら。
「買っちゃえ、買ったらそれでやる気も起きるかもしれないし」相手はそう言った。たぶんぼくも、そう言ってほしかったんだと思う。人に責任をちょっと乗っけて、勢いをつけたかった。
その3日後に、もうポチってた。届いたのはその数日後。
だからといってすぐ描いたか、というとそうでもなかったことは笑い話として残しておこう。
接続のテストや試し書きなんかをして、問題なく動くことを確認したあと、『今の画力』みたいなのを残しておこうと思って絵を描こうとしたら、描き方もよく覚えてなくて放り出して、あとは忙しさにかまけてた。なんか8〜10月、やたらと忙しかったんですよ。10月なんて暇の塊のはずだったのに、予想外でした。閑話休題。

とはいえ、ただ放り出す、飽きる、買って満足する、とは少し心境が違っていたのは気づいていた。
『時間が作れればいつでも絵が描ける』と常に考えるようになっていたから。
そこから"気づき"を得るのはトントン拍子。そう、絵のことを考えるようになってようやく気づいた。
そうか、ぼくは絵が描きたかったんだと。
数多くの"逃げ"が続かなかった理由も、目が覚めてみるとわかった。ぼくがいつも表現したいのは『絵』だったからだ。
すべての原動力が「こんな絵が描きたい」だったのに、ぼくが取った行動は「絵は描けないからこっちの世界で表現してみるのはどうだろう」だった。
つまり、"逃げ"の先でやりたいことが何もなかったのだ。こんな表現がしてみたいとか、こういうものが作りたいとか。
創りたいもの、表現したいもの、ぼくが心から外に出したいものは、ずっと『絵』だけだったんだと、気づいたのがようやく2ヶ月くらい前だった。

考えてもみれば、これはぼくの奇行の話だが、昔から、それこそ幼児の砌から、ぼくの頭の中には映像がある。数秒のアニメーション。それらは様々なシーンを切り取ったもので、何かのワンモーション。緩急がついて、写真を撮るように、静止画で切り取られて止まる。
例えば、ぼくは幼少期(未就学〜小3くらいまで)水泳を習っていたが、その時水に潜って常に脳裏に描いていたのは、セーラームーンの水野亜美。当時の推しだ。頭がいいことは憧れだと思っていた。
彼女が、水中に潜る。両腕を体側にぴたりとつけて流線型。なめらかに水の中を進む。髪が水流でふわりと揺蕩う。足先が魚のひれのようにワンストロークはたりと上下し、緩やかな推進力を生む。その様子を、顔の左斜め前のカメラから映したアニメーション。
それを、自分の体でなぞるように、重ね合わせるようなイメージで泳いでいた。当然タイムを取るときなんかはそんな泳ぎ方では許されなかったが、自由時間なんかはいつもそのイメージで水の中に潜ってばかりだった。水の中は音も少ないし、トリップするにはちょうどいい。
ほかにも、バレリーナのように美しい指先が、たおやかに天に向かって伸ばされる様子。長いスカートの少女が、ふぅわりと大きくそれをはためかせながら軽やかに踊り、くるりと振り向いた瞬間。ばら色のちいさな唇に、ついと指を添えたときめき。
ぼくの中にはいくつもいくつも、そうした『瞬間』が映像あるいはマンガのコマ割りのような連続のカットで頭の引き出しに入っていて、ひとりのときには部屋の中でそれを自分の体でなぞっては夢想の世界でひらひらとひとり舞っている。
これはお恥ずかしながら、幼少期に限った話ではない。今でもだ。なんなら数日前にやっていた。
この『瞬間』たちはぼくの『理想』で『憧れ』で『心動くモチーフ』で『大切なイメージ』だ。そうだと思っていた。
違ったのだ。ぼくが出力したいのは、この『瞬間』たちだった。「こうなりたい」「これを表現したい」「これって素敵でしょ!」それらの集合体がこの『瞬間』だった。
それを、「でも描けないんだからしょうがないよね」って横に置いて、別のことをしようとしてもそりゃあうまくいくはずがない。やりたいこととは違うことをしてるんだから。

この人生、たぶん絵を描かない限り一生満足しないぞ。

と気づいたのが、9月の半ば頃だった気がする。
ようやくその段階にやってきた。そうなると、今度は絵を描くことについてちょっと前向きになった。
お絵描き講座とか受けてみるのもいいんじゃないか。効果の程は半信半疑だが、ビフォーアフター的に記録を残せばネタにもなりそうだし、なにせ講座みたいのを受けてないと心が折れたらまたやらなくなるぞ、とか。
でも有料講座じゃなくても今は無料講座が充実してる!みたいな情報もあって、どれを信じていいやら。今絵を描きはじめるならクリスタ買うのがいいんじゃないか、でも講座受けるとクリスタついてくるやつもあるから、それも見極めてどうするか決めないと……とか。
そんなことを考えるうち、時間ばかりが過ぎていった。なにせ本当に忙しかったのである。なんか10月とか、毎日2人分くらい作業して、バンバン残業してた。それと並行して転職活動をしないとならなくなったし、9月から10月半ばにかけてそれの準備で奔走していた。
イラスト講座をやるなら集中して時間を取れるタイミングにしたい、と思っていたらずるずる先延ばしになっていたのだが。

先日ちょっとした転機があった。
ツイートしたので日付もわかる。10/26の夜だ。

『部屋を片付けていたら高校時代の絵が笑えるくらい出てきました
 なんとなくきちんと取っておこうと思ってしまったので
 数年後ぼくがそれを後悔しないように祈っていてください』

高校時代の相方と、毎日絵を描いて交換していたときの手紙だったり、そこに入れきれなかったぼくのたくさんの『描きたくて描いた絵』たちだった。
それらを見たときにふっと思った。

なんだ、別に下手じゃないな。

あの頃はうまかったな、という感覚も確かにあるのだが、そもそもずっと「周りより下だった」と思っていた絵が、今改めて客観的に見ればそれほど悪くなかった、というような話だ。
もちろんデッサンの狂いはあるんだろう。描きたくないところをごまかした感もすごい。描けてないところも多いし、何も考えずに描いてるから嘘もたくさんある。
でも描きたいものを描きたいように描きたいだけ描いてたときの自分がそこにいて、その描かれた絵を見て、ぼくは「下手じゃなかったな」と思った。自分は絵が描けてたんだ、と自覚した。
これは保存しておかなくちゃいけないと思った。
これはぼくの創作意欲の原点だ。
だからきちんと取っておこうと思った。そしてこれを原動力に、絵を描こうと思った。
その瞬間に、爆発した。講座がどうとかじゃない。今のままの、このときの絵でもいい。描きたい。描ける。描こう。
クリスタはしばらくの間無料で使えることを知った。プランに悩むくらいなら使ってから考えようと思った。
液タブの配線を変えた。賛否あると思うが、PCの前に座って描くと、椅子に座り疲れてしまってなかなか集中できなかったので、ベッドに寝ながら、あるいは背を凭れた状態で使えるようにした。PCの真裏にベッドを置いてる家具配置でよかった。
ちなみについでにゲームパッドもつないだ。ぼくの液タブはPC画面をクローンするだけなので、Steam起動すればベッドに転がりながらゲームできると思ったからだ。余計なことをする。

そして。
28日に卓があったり29日にはそのふせを書いたりで過ごしたものの、30日。深夜。
ぼくははじめてクリスタを起動し、画面にペンを立てて絵を描いた。このタイミングだからハロウィン絵がいいと思った。
30日も31日も飲み会が入っていたが、リビドーが耐えられなかった。
顔だけしか描かなかったがはじめてのツールひさしぶりの絵、3時間半くらいかかった。ふたり描くつもりだったが、翌日も夜は飲み会だし余裕ないな、と諦めるつもりで。
結局翌日、選挙行ってすぐ、もう片方を描きはじめた。仕上がったのは出掛ける30分前とかだったが、心から満足して出掛けられたと思う。
そして1日の夜、ぼくは興奮のままにこの文章を書き連ね、危うく夜が明けそうになり、倒れるように寝たら熱を出した。いいオチがついたものだ。

なお、このnoteのアイキャッチ画像は先日出てきた絵ではないが、同じ頃高校時代にぼくが描いたコダックである。非人間のほうが自信がある期が一度きて、ポケモンばかりずっと描いていた頃があったのだ。
これだけでもなんとなく、悪くないかも、と思った気持ちがわかってもらえるんじゃないかと思って選んでみた。ドーナツの穴がデカすぎし他のパン屋お菓子も記号的だが、まあ、なんか、かわいいでしょ。自画自賛だ。

今は、講座を探したい気持ちはありつつも、それより髪の毛ってどうやって描いたらバランスがいいだろうとか、目はどうやって描くのがいいだろうかとか、具体的な意欲のほうが先に立っていて、描きたい欲のほうが強い、という状態になっている。
熱が下がりきっていないので、この文章を書き終えるほうに時間を使ってはいるが、気持ちだけはもりもりある気がする。

と、こういうことを書くと、「いつ描くの」とか「次まだ?」とか「うp」とか「そんなことより描かなきゃうまくならんよ」とかいろいろ言われそうな気がしてならないのだが、そういうのほんまのほんまにモチベを削るから、やめてほしい。
気難しいやつと思われるかもしれないが、ネタっぽく「先生の次回作お待ちしてますw」みたいに茶化されようものならもう二度と描くかとすら思いそうだ。
ようやく「下手でもいいから自分と向き合ってどうにか足掻こう」と思いはじめたところだし、正直ちょっとずつしか進める気がしない。やりたくない!と投げたくなることも多々あるだろう。
そんなときに外側からつつかれるのはいい気分がしない、というのはわかってもらえると思う。
だけど、がんばってるから評価はされたい。わがままだが、褒められたい。つつきは萎えだが、褒めはモチベなのだ。

だから、とりあえず、応援してるよって思ってくれる人は、言葉にしなくていい。言葉にしなくていいから、このnoteにスキを押してくれないだろうか。
note投稿お知らせツイートにふぁぼでもいい。とりあえず♡をもらえたら、その気持ちで練習する。
そしてもし絵をお見せすることがあったら、ちょっと褒めてくれたらうれしい。その一言で、ぼくはまた少し羽ばたける気がするから。

わがままで自己顕示欲と承認欲求が強いことを言っている自覚はあるが、一回折って蓋をして閉じ込めていたものを、ぼくはひとりきりでもう一度立ち上げる自信がない。
背中をちょっと、押してくれないだろうか。

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