見出し画像

にんげんせいかつ

みんな、家族ほど近すぎず、従兄弟くらいの距離感で居てほしい、自分もそれくらいの距離で人と関わりたい

他の人からみると、自分は「自分のことに興味がない人間」に見えているらしい

自分と関わっているみんなは、今たまたま私の前を通りかかったから関わっているのであって、最終的には通過して離れていく、という感覚がある。どうせみんな私を置いていなくなるんだ!っていう悲観的な見方とはちょっと違う、そこまでネガティブじゃない。

人間関係の図を描くときに自分を入れるのわすれがち。

自分には代替可能性があると思っていて、それは悲観しているということではなく、むしろそのことによって安心している節すらある。しかし、おそらく多くの人が、「誰か/何かにとってかけがえのない存在になりたい」って思うものらしいので、外では言わないようにしている。「そんなことないよ!」っていう慰めを求めているわけでもないし。

会話において圧倒的に聞き手だと思っている。聞き手しかできない、ともいえる。誰かと話してる、もとい誰かの話を聞いているときに。その人の話と関連した自分の話をし始めるとちょっと驚かれる、「あ、こいつ話すんだ」みたいな感じで。そういうことがあるたびに、「自分は聞き手としてはそれなりに需要があるんだな」とか「多くの人は自分の話を聞いてほしいものなんだな」と思う。

自分の質量が増す?というか、存在してる感が増す?みたいなのが苦手。できるだけ透明な感じで存在していたい。消えたい、とは少し違う。3人以上のコミュニケーションなら、自分に話が振られないようにすればそれがかなうけど、1対1のコミュニケーションにおいて、自分の話をしなければならないような状況になると、自分の輪郭がはっきり浮かび上がってくるような感覚になってきもちわるい。面談とか。そういう場面では悲しくもないのに涙が出てしまう。

誰かから親切にしてもらったり好意を向けられたりしたとき、それを受けとる作法がいまだによくわかっていない。「自分なんかがいいのだろうか」「自分にはとても返しきれない」と思ってしまうあまり、時にその愛を突っぱねてしまうことさえある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?