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『現代の超克』の文章がココロを打ち抜いたので、私の「引き出し」に入れる。

 読むということは、それを書いた者と出会い、対話する、ということです。そして、書くとは、先人の叡知に助けられながら未知の自分に出会うということです。 読むと書くということが十分に行われなくなると、人は考えることを止めてしまう。人から与えられたことを受け容れるか受け容れないかを判断するだけになる。それが何であるかを見極めようとはしなくなってしまう。テレビや新聞で語られていることをすべて真実だと思い、その情報の上に貧しい「自分」の見方を打ち立てることになる。「自分」で真剣に考えたことなどほとんどないのに「自分」の考えだと誤認する。現代の日本にはこうした現象が跋扈しているように思えるのです。
 小さな、しかし決定的な経験を掘り下げる。他者との対話のうちに掘り下げる、その地平を取り戻さなくてはならない。
 植物を育てなくてはならないときに、実際に手を動かす者がいなければどうなるでしょう。まだ、芽が出たばかりだとします。水をやり、手当てをし、育てなくてはならない。しかし、その場にいるのが観察者ばかりだったらどうでしょう。見て、記録をし、感じたことは書くこともあるが、水もやらずにその場に参与することがなければ、植物はほどなく枯れていくはずです。
 観察者として読み、書くのではなく、いわば文化の栽培者として読み、書く。種を見ているだけでは何の「植物」かは、よくわからない。育て、ともに暮らしてみなければわからない。伝統も、歴史も同じです。人類の叡知は、個の精神と同じく、樹木的成長を遂げていくのではないでしょうか。そこにはどうしても協同する者の存在が不可欠なのです。

(中島岳志・若松英輔『現代の超克』P67~68より抜粋)

小難しい本で読むのには時間がかかります。難しいから分からないことも多いです。でも、流れをひしひしと感じて読み始めているため、篤き魂すら感じるほど学ぶことが多いです。6年前だったら絶対に読まないですし、すぐに投げ出していた本ですね。全部理会することはできませんが、でも、今読むべき本だと感じるし、今まで読んできたと次の本に読むべき本をしっかり繋げてくれている気がします。これまた、世界観というか人生観に深みを増してくれる一冊になりそうです。
なお、読んでいる最中ですので、感想などは後日ブログにあげる予定です。

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