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遺失物管理所 about books no.5

地下鉄に傘を置き忘れたかもしれない。
会社を出る時になって気づいた。
自宅を出る時はどうだっただろう?
持って出なかったのかもしれない…。
正直なところ、忘れたかどうかも怪しかった。
コンパクトな黒い傘で、100グラムほどの軽さ、雨晴兼用、数年前にコンビニで限定販売されたものだ。
雨の日はさほど役立たないけれど、晴れた日は必要った。
もしまだ店頭に同じもがあれば、また買うかもしれない。
私にとって軽さは貴重だった。

翌朝、地下鉄の改札で尋ねてみると、私の乗り降りする駅に『お忘れ物取扱所』があるという。
地下鉄の忘れ物は翌日の17:00以降、全てそこに集約されるそうだ。
『お忘れ物取扱所』と駅員はさらりと口にしたけれど、いざ口に出して言ってみるとなんとも言い難い言葉だった。
忘れ物にまで「お」をつける丁寧さが、なんだか可笑しかった。
真面目そうな駅員は表情を変えることなく、丁寧にその場所を教えてくれた。
私が日々通過する地下の一角で、天井のサインが方向を指していた。
どんな場所なんだろう?
そう言えば、鉄道の遺失物管理所が舞台の本を読んだことがあった。
ドイツの作家、レンツの作品だった。
当時の感想メモを読み返すと、こんな風に書かれていた。

『遺失物管理所』
ジークフリート・レンツ・作
松永美穂・訳
新潮クレスト・ブックス

 魅力的なタイトルに惹かれ、迷わず手に取り読み始めた。その名の通り、連邦鉄道の遺失物管理所が舞台だった。
 ここには乗客が車内や駅の構内に置き忘れたり、落としたりした様々な物が集まって来る。物だけでなく、カゴに入った鳥までいる。(もちろん生きている)
 物語は24歳の若者、ヘンリー・ネフが配置転換先の職場、遺失物管理所を訪ねて来るところから始まる。ここでの仕事はただ遺失物を管理するだけではない。また落とし主が現れても、遺失物をすんなり差し出すこともしない。『持ち主を信ずるに足る方法でそれを証明しなければならない』のだ。決められた手続きにそって用紙を満たし、手数料も徴収する。
 財布を落とした老人は中の金額を尋ねられ、台本を置き忘れた女優は、ここで配役の台詞を暗唱する。商売道具のナイフの入ったトランクを置き忘れた芸人は、自分の持ち物だと証明するためナイフを投げてみせたりする。パートナー役を務めるヘンリーにとっては、命がけの証明になる。こんなことまでするのか!と驚いてしまうのだが、なんだか彼はそんな任務を楽しんでいるようだ。
 この職場に来たときから、彼は様々な遺失物に驚き、興味を持ち、まるでおもちゃの部屋に入った子どものような雰囲気があった。純粋で、どこか世間擦れしていなくて、出世、昇進にも欲がない。
 既婚の同僚にちょっかいを出すたび、冷たくあしらわれている。それでもめげずデートのプランを立てる。どこまで本気かつかみどころがないけれど、読後は彼が好きになる。しおりを集めていたり、自分のマグカップに名前をつけていたり、正義感だけで突き進み、同僚のために自身が職場を去ろうとするところも魅力的だ。
 遺失物を通して出会いもあった。通り過ぎていくモノもあれば、続いていくモノもある。そして、別れも。
 ささやかな出会いが大半だ。でも、そんな出会いが人生に喜びを与えてくれるのだ。小説も楽しめたけど、映画の中のヘンリーにもぜひ出会ってみたい。しおりのコレクションも、ぜひ詳しく見てみたいと思うのだ。

2005

当時のメモを読む限り、映画化されたのかもしれないが、結局、映画を見る機会はなかった。見られるなら、今も見たい気持ちは変わらない。

近く行くであろう『お忘れ物取扱所』に俄然興味が出てきた。
ただヘンリーのような人に会える可能性は少ない。
この国の人たちの勤務態度は真面目すぎて、面白くない。
なんの変哲もない黒い傘を、私は自分の傘だと証明できるだろうか?


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