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人より食べる

食べる量が人と違う。
食べる量が人と違うから、食べ方も人と違う。
宝くじでも当たれば別だが、「ご飯 お替り自由」に引っ張られてしまう。
空腹度合いとは別に、「モーニングメニュー」で入店すべきなのかと迷ってしまう。

いっそのこと空腹を楽しんで、胃を小さくした方がいいのかもしれない。
お財布への負担も、胃とともに減る。
いずれにしても、“溜めるか無くすか”という「0か100か」の発想になる。

食べ方が人と違うから、食べる量も人と違う。
決まった時間に食事を摂る生活に、猛烈な憧れがある。
――決められていないスケジュールの中、決まった時間に食事を摂ることへの憧憬。ああ、どこか大人な装い。「中田英寿」っぽい。

水分を摂取したい時に、水で十分だと感じながら、手元にジュースしかないがため、やむなくそれを飲むと、どこか損をした気持ちになる。
「貨幣」に縛られて、「適宜」を煩悶してしまう。

水を飲んで、腹を満たす。
水を飲んで――充足されていた余韻が流されて――、腹が減る。

どちらも、身体的感覚から、その存在をはっきりと理解できる。
つまりは、“気持ちの問題”として、意思で処理した方が建設的なのかもしれない。
最近、かつての最強フードファイターは、栄養摂取にあたり、満腹中枢が遮断されているという記事を読んだ。
余談になるが、その記事のコメントには、“そもそも大食いをスポーツとして捉えることには不審感があった”とのものが鈴なりになっていた。だが、それを名誉なこととして、一旦は称えていたのだから、ハシゴを外すような流れには不快感がある。“元々ワタシはそう思ってた”という個人の気持ちまで引っ繰り返そうとは思わないが、その気持ちの表し方次第では、言葉に含まれたネガティブさと相俟って“「過去」とは間違っているものだ”という、拡大化された意識で物事を語っているように見える。
う~ん、やっぱり悲劇のヒロイン。「○○○○」っぽい。

話を戻す。
空腹感に慣れるということなのならば、水を飲んでもいいし、飲まなくてもいい。
食事を摂ってもいいし、摂らなくてもいい。
ただ、問題はある。

楔を打ち込むように、定期的にお店に入らなければ心が病む。
陣地が後退する。
「悲劇のヒーロー」っぽい。
食べる量や食べ方は違っても、病み方は人と変わらない。
同様の陳腐さ。

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