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こんにちは

確か女子バレー部の顧問だったような気がする。
すでに卒業した学校に、ふらふらと訳知り顔で訪問するような人間だった自分は、何の用もなく彼と喋っていた。
年齢は今の自分と同じくらいだったろうか?
大まかに言えば、10代と40歳前後。

何を喋ったかは覚えていないが、対等な口調で喋っていたんじゃないかということは想像できる。
薄っすら覚えているやりとりが
「俺いなくなって良かったでしょ」
「お前みたいなやつには、入学して来て欲しくない」
というものだったから。

在学中はほとんど喋ったことのない先生で、柔らかい先生だったと思う。
「お前みたいなやつはもう嫌だ」
と言われ、ニヤニヤしていた。自分は。

だから、悪い思い出ではない。
というよりも、先生に対しての印象がほぼない。
何故、この記憶を、最近思い出したかと言うと、「あの時、自分は挨拶したかな?」と思ったからだ。

「挨拶しろ」とはよく言われた。
“誰に”というか、“全体に”言われていたと思う。
だから、はっきり、“こいつ”に“ここ”で言われたという記憶は思いだせない。

「挨拶なんて意味あんの?」

という自我は覚えているから、「『挨拶しろ』とはよく言われた」ことは間違いないはずなのだが、それは推理に過ぎないと言われれば推理に過ぎない。
だから、本当はあまり言われてなかったのかもしれないが、あくまで、ここは“聞く耳を持っていなかった”からということで、進めたい。

今、断言する。
「挨拶」には意味がある。

どうして、そう思うか?
こんなに素敵な日本でも、思いの外「敵」がいるからだ。

ホームレスをやる度に思うが、ホームレスをやっていると“媚び力”が付く。
不特定多数に対して、おもねろうとする。
不特定多数が敵か味方かわからないから、まずは自分の方から、“自分は敵ではない”とアピールする。

取っ組み合いになれば、今でも半分以上の人間に勝つ自信はあるが、そんな面倒は、最後の手段に残しておきたい。
最初から喧嘩腰でいては、生存確率が下がる――そんな生き物として当たり前のような脳の仕組みになる。

やや大袈裟な表現だったかもしれないが、具体的に言うならば「自分は無害ですよ」とアピールしておかないと、110番され警察官というインベーダーに囲まれたりするので、イキり倒していていいことはないのだ。

挨拶とは「自分は無害ですよ」ということ。
――挨拶とは「安全保障」なのだ。

社会に対して丸腰になるほど、挨拶の意味がわかる。
だから、社会に対して丸腰になったことのない当時の大人たちは、「挨拶」の意味を説明できなかったのだ。
「挨拶なんて意味あんの?」という我が通せてしまった。
甘えのあった自分自身が、「挨拶とは安全保障だよ」と説明され、理解できていたかは甚だ怪しいが。

しかし、そう考えると、「挨拶」の本質が忘れられて久しい。

年長者に対して敬意を表すため、毎日を気持ちよく始めるため……いや、そんな生ぬるい理由じゃない。
そんなやわな理由で、古来、習慣化するわきゃあない。
「何でわしに挨拶がないのじゃ!無礼者!!」
いやいや、アンタが安全保障上、脅威に映っていないだけだから。

まあそんなことも相俟って、最近三枚目で生き続けている。
――気分は、ザキヤマさん?!

ノリで信号待ちをしている兄ちゃんに話し掛けたら、アジア系の出稼ぎ外国人だった。
「何の工場で働いてるの?」
と尋ねたら、まごつきながらもごみ収集員と回答。
「日曜しか休みないよ」
と笑っていた。

異国から日本に来ている彼らは、日本にいる日本人以上に、安全保障を理解している――。
だが、まあ、しかし、“耳が痛い”。

青に変わった信号を前に「カモン」と誘われる俺……。
「あ~あ、真剣に仕事探さねーとな」

(作詞もラジオパーソナリティーも真面目に出来ると思ってますけれど。ケッ)

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