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写真を写心と言い換えるのは反知性的と思うのだ

 写真を写心と言い換えて悦に入る写真愛好者は少なくない。
 それどころか、自ら【写心家】と名乗る人物も複数存在している。
 なぜ、わざわざそんなダジャレみたいな言い換えをするのかといえば、写真に心を写すから写心、なのだそうだ。
 写真に心が写るかどうかはさて置くとしても、写真に心が写っているかどうかを感じ、判断するのはあくまでも写真を見るニンゲンであって、まかり間違っても撮影者が自分から言うものではない。
 だが、この言葉は実に広く使われていて、また人々の興味を惹いているのは事実だ。
 なぜか?
 それはキャッチフレーズとして非常に優れているためだ。

そもそも、カメラマンが使う【写心】ってのは写意の同義語でしかない。

しゃ‐い【写意】

  1. 〘 名詞 〙

  2. 意味内容を書き取ること。

  3. 絵画などで、形を写すことを主にしないで、被写体の持つ内容、精神など内に秘められた美を描写すること。

    1. [初出の実例]「たとへ書の狂草、画の写意とても、一筆の利刀を以て銅版に刻みたる墨痕紙上に出申候」(出典:随筆・玉洲画趣(1790))

出典 精選版 日本国語大辞典

 というわけで、写意を使えばよいと思うが、絵画由来の言葉を使いたくないのか、あるいは写真の語呂合わせがおもしろいためか、先述のようにカメラマンの一部は非常に好んで使う。
 写真を写心と言い換える言葉遊びが、いつ始まったのかはわからない。ただし、昭和40年代末には使用例があるとされており、バブル期以降からはメディアでも一般的に使われているようだ。
 ただ、もともとが語呂合わせで、キャッチフレーズとしては優れていても、言葉としての使い勝手はよくない。例えば、写意を感じるとか写意を尽くす、写意があるなど、ちょっと考えればいくつか出てくるけど、写心だとそうもいかないのは容易に想像がつく。語呂合わせだから仕方ないのだが、言葉としてキャッチフレーズにしか使いようがないところもまた、あまり知性を感じない要素だ。

 いちおう、言葉としては明治の錦絵師「楊洲周延(ようしゅう ちかのぶ)」の『幻燈写心競(げんとうしゃしんくらべ)』と題された連作があり、また古くは清初の文人画家「王槩(おうがい)」の『写心集』もある。とはいえ、楊洲周延の『幻燈写心競』は女性の内心が幻燈機の投影像のごとく映し出された様を描いたもので、また王槩の『写心集』は時代が古すぎるのももちろん、中国語の写は第一に『書く』を意味するため、その意味からも写真とは無関係だ。

「楊洲周延(ようしゅう ちかのぶ)」の『幻燈写心競(げんとうしゃしんくらべ)』 「王槩(おうがい)」の『写心集』など

 さて、なぜ写真を写心と言い換える言葉遊びがキャッチフレーズとして優れているのかといえば、それはニンゲン心理のツボをついているためだ。まず最初に、多くのニンゲンは心は不可視であり、さらには軽々しく表出しない、させてはならないと信じている。
 次に、多くのニンゲンは外部からの情報刺激をもとに、なにがしかの物語というか、筋道をほとんど無意識かつ半ば自動的に生み出し、受け取った情報を整理、あるいは理解する。
 このふたつが前提条件として存在するところに、写真を写心と言い換える言葉遊びが組み合わさって、心という不可視存在を写真として可視化するなんて、これはすごい人なんだとか、あるいはすごい写真だとか、そういう印象を植え付けられる。もし、懐疑心や反発を感じたとしても、すでに興味や関心をいだいており、キャッチフレーズとしては効果を発揮しているのだ。
 そもそも、写真を写心と言い換える言葉遊びがあろうがなかろうが、ニンゲンは写真に心を感じる。例えば、自動撮影のプリクラシールだって、なにがしかの心を感じる。あるいは手配写真ですら、添えられた罪状などから、なにがしかの心を感じたりもする。
 それほどまでにニンゲンは筋道をほとんど無意識かつ半ば自動的に生み出し、受け取った情報を整理、あるいは理解する。理解せずにはいられない生き物である。顔写真に指名手配と添えられていれば、あぁ悪いやつなんだなと思い、また写真を写心とわざわざ言い換えていれば、なるほど写真にも心が写るんだなと思う、ニンゲンのそういう特性、もしかしたら弱点を突いているから、写真を写心と言い換える言葉遊びが力を持ち、実に広く使われていて、また人々の興味を惹くのだ。

 ともあれ、自分はそういうニンゲンの愛すべきチョロさ、心のスキを突くような言葉だからこそ、自分自身は目にするのも嫌な言葉のひとつで(他にうんざりする言葉として【写欲】がある)、留保なしに使う人とは距離を起きたいほどなのだけど、まぁ好んで使う人が多いこと多いこと。それだけ写真という映像表現が単に上っ面をなぞるだけで、内面を描き出さないって思い込み、あるいはコンプレックスが強いのかもしれない。けど、映像方面の人はまず使わない言葉ってところからして、いろいろお察しなんじゃないかなぁって、そういう嫌味のひとつも言いたくなる。
 すくなくとも、自分は決して留保なしに使うまいと、心に誓っているのでした。


¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!