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デラックスアップルパイとペットレスの女

 ん? 留守電?
 名画座を出て携帯の電源を入れたら、久しくみていなかった留守電アイコンが表示される。これがテープレコーダの記号だなんて、もうわからない人のほうが多いんじゃないかとか、そんな思いをあえてひねくりまわしたのは、伝説的なマカロニウエスタンのロケ地を再現したドキュメンタリーの余韻を吹き飛ばした間の悪さへの、かすかな抗いのような気もしなくはない。
 ただ、表示された固定電話回線の、それも03番号に はかすかに見覚えがある。
 とりあえず、多少でも静かなロビーのすみへ移動し、要件を再生した。
『ごぶさたぁしてぇおりーーます……』
 ろくに聞き取れなかったが、それでも相手が誰かはすぐにわかった。言葉のタメに特徴がありすぎる。
 留守電相手はネット犯罪に詳しい弁護士で、だいぶ前に仕事を手伝った。それだけの繋がりだったけど、いまさらなんの要件だろう?
 初対面のとき、明るい海老茶のストライプ、しかもダブルの三つ揃えでビシッとキメていた彼に、なんとなくマカロニウエスタンの悪役を重ねて……いや、それはさっきの映画に上書きされてるな。
 ただ、どう考えてもすぐかけなおすべき相手なので、そのままコールバックすると、その場で面談の運びとなる。
 それも今日、これからだ。

 都心の一等地にある事務所でひさびさに会った彼は、ほとんど白に近いグレイのリネンスーツでキメていたのは相変わらずな感じだったけど、前髪がかなり後退していて妙に見覚えがあるような容貌に……あ、リー・ヴァン・クリーフ!
 とはいえ、彼の要件はそんな連想を吹き飛ばすように重く、そして厄介だった。

 弁護士と別れた後、俺は自販機の脇に身を潜め、ショートメッセージを飛ばす。別にわざわざ隠れることもないのだが、どうにもこうにも気持ちが縮こまってしまい、不安を抑えられない。いつまでたっても馴染めないタッチパネルに苦戦しつつ、どうにかこうにかメッセージを入力し、内容と送信先を再確認して送信する。
 メッセージと言っても『お久しぶり、番号いきてますか? 連絡下さい』だけではあるが、それでも送信直後に不着メッセが届かないことを確認すると、そこでなんとなく気持ちが楽になる。
 ようやく日が落ちて、薄紫色に染まりゆく空を背負うように歩き出す。自転車の群れに紛れて信号を渡り、歯抜けの商店街を半分ほど過ぎた時、ポケットが振動した。どうせスパムだろうが、気持ちがささくれてる時は無視できない。軽く舌打ちして携帯を取り出すと、画面には先ほどの相手が表示されていた。
 内容は新着表示のヘッダに収まる『お久しぶり、生きてるよ。どした?』のみではあったが、俺にはそれで十分だ。すかさず『急ぎの用件があるので話だけでも聞いて欲しい』と返信、そこからちょっとしたやりとりを経て音声通話の手はずを整えると、夕食の買い物もせず部屋へ急ぐ。
 パソコンを立ち上げる間に飲み物を用意し、時間を確認する。こういう時に限って、癇に障るタイトルのスパムがボックスにしれっと紛れ込んでたりするけど、いまは安全センタへ通報する手間すら惜しい。
 インカムを装着して音声テスト。
 マイクも問題ない。そう、わざわざテストする。こういう時に限っておかしくなるもんだからさ、事前に確認しないとまずいんだ。デジタルガジェットってやつはな。
 ようやく少し落ち着いて、メールやソーシャルの通知を確認していると、音声着信の表示がポップアップする。えらく懐かしいアカウント。まだ使ってたんだ…… もちろん即座に通話許可ボタンを叩く。
「みゃぐゃ」
 ネコ? まさか、ネコ? なぜ? どうして?
 不意を突かれ、あわあわしてるところへ「モンちゃん、やめて」と、懐かしい声がかぶる。間違いない、メッセージの相手だ。でも、ネコ?
 モニタ越しに見えるアイドルやアニメ、ゲームのグッズが、フィギュアが、いかにも独り暮らしの貴腐人めいた雰囲気を濃厚に漂わせている。でも、肝心のご本人は見当たらない。ただ、かすかに「おいで、おいで、おじさんにご挨拶しましょうね」なんて、間の抜けた猫なで声だけが聞こえる。
「まさか、ネコ? お迎えしたの?」
「うん、そのマサカなのよぉ! 春にお迎えしてたんだけど、まだちょっと馴染んでないのよね」
 声の後から呆れるほど大きな白黒のハチワレを抱えた、眼鏡の中年女性が現れた。それにしても、先代も大きな茶トラネコだったが、このハチワレはさらにデカイ。ネコに隠れて腹が見えない……。
「ばぁ! おじちゃんにご挨拶しましょうねぇ」
「にゃぐゃ」
 いや、違う。ちょっと痩せたんだ。
 だよな、あの頃はすごい落ち込みようだったものな。でも、元気そうだからいいか。
「もう、ネコは飼わないんじゃなかったの?」
「いやぁ、それがですねぇ」
 ネコとアニメとゲームとマンガとボーイズラブの話をさせたら最後、めちゃめちゃ長くなる、しかも全く要領を得ないのは嫌というほどわかっていたが、もうどうにも我慢できない。なにせ、数年前に飼いネコのシフォンを亡くした時はペットレスもいいところで、仕事が全く手につかないどころか、本当に後追いするんじゃないかと心配になるほどだった。実際に引きこもってしまい、しばらく音信不通だったし。だから、楽しそうに新しいネコの話をだらだら重ねる姿を見て、嬉しいような次が怖いような、なんとも微妙な気持ちが芽生えるのは、もはやどうにも抑えがたかった。
 遅い朝食に昨日の惣菜パンを食べたきり、それからなにひとつ飲み食いしていなかった俺の胃袋が限界を迎える寸前まで時間を費やした末、バラバラに吹き飛ばされた手稿のごとく、行きつ戻りつ飛び跳ねる話をつなぎ合わせた結果、孤独死した老女の部屋で発見されたネコをキャットシェルターから引き取ったらしい。幸か不幸かゴミ屋敷だったおかげで、エサには不自由せず、たくましく生きながらえていたそうだ。
 発見された時にはさほど衰弱していなかったどころか、その巨体で踏み込んだ警官と大家を威嚇したという。ただ、お陰で人喰いネコの噂が立ってしまい、引き取り手がないところを哀れんで連れ帰ったという。
 いったいどこまでが本当で、どのあたりから話を盛ったのか、この際そんなことはどうでも良かった。再びネコと暮らし始めたペットレスの女が、脳天気に「モンちゃんはだいぶ年寄りだけど、私のとこに来たらもぅ十年は生きるよ。ママはシフォンと二十年も暮らしてたんだよ。ねぇモンちゃん」と、眼鏡の奥に淡い光を揺らめかせつつ、ヒトのことなど気にも留めないネコへ話しかける姿の切なさに比べれば、全ては瑣末なことのようにすら思える。
 とはいえ、俺にはもっと大事な話があった。
 困ったことに、ペットレスの女は遠回しな話を受けつけない。はっきりと、直截に言わなければ伝わらない。だが、サーバが音声を記録してるネット通話でストレートに表現するにはいささかばかりはばかられるような案件をペットレスの女に振りたい俺としては、できれば事務所まで来てもらいたかった。結局、ペットレスの女がトイレから戻ったタイミングで、率直に「仕事の話がある」と切り出した。
「あぁ、やっぱり。そんなことだろうと思ったわ」
「というわけで、事務所まで来て欲しいんだけど」
「うぅん…… 事務所はちょっとかなぁ」
「じかに話したい案件だし、他人がいないところがいいんだけど、ダメかな?」
「ふへぇ! また、そういう仕事なの?」
 眼鏡越しにもはっきり分かるほど顔をしかめて、ペットレスの女は風呂場のニオイを嗅いだネコのように鼻を鳴らした。
「いや、やることは前と変わらないんだけど、ターゲットがさ……」
「なんとなくわかるんだけど、ふたりっきりってのは、ちょっとね」
「大丈夫じゃない感じする?」
「いやぁ、まぁ大丈夫だと思うけど、これって私の問題なのよネ」
「いまでも、初対面の男としかやらないの?」
「そうよ! あ、いや、シフォンが虹の向こうへ行っちゃってから出会い活動やってないけど、でも最初にやらなかったらやらない、関係はその時イッカイだけ。それはあの頃と同じ、いまでもそうよ」
「だよね、でも俺とはやらなかったし、わかってるからやらないし、大丈夫と思うよ」
「うん、わかる。あなた大丈夫な人だけど、でもダメなの。ふたりだけになると、きついの。私の問題だから」
 以前はもう少し物分りが良かったような気もしなくはなかったし、下の事務所で打ち合わせしたことだってなくはないのだが、こうなるとどうしようもないのはわかっていた。とにかく、ペットレスの女が引き受けなければ、他に頼むあてがないのだから、少々のことは妥協せざるを得まい。
 ただ、ありがたいことにペットレスの女はすっかりヒマらしく、明日の午後でも時間がとれるという。それに、聞かれたくない話もできる店のあてが、俺に全くないというわけではない。
 結局、俺とペットレスの女と両方に便利な繁華街の外れにある、過去にも数回使った喫茶店で待ち合わせと決め、現在の状況や営業時間を確認する。ありがたいことに店はまだあったし、俺が大好きだったデラックスアップルパイもメニューに残っていた。
 店の名前とおおまかな場所を口頭でペットレスの女に伝え、できればメモは取らないように念を押す。どうせ、仕事が始まったらマメにやりとりするのだが……。
 と思っていたら、ペットレスの女は手の甲になにかメモしている。
「ここなら大丈夫でしょ。それに、書かなかったら忘れちゃうし、だからさ、明日もね、直前確認お願いしますよ」
 半ば呆れつつ「わかった、了解、大丈夫」と返し、そこから「この垢まだ使ってたんだ」とかなんとか、話題を変えながらペットレスの女から近況をうかがう。幸い、メンタル最悪の時期でもネットにはぼちぼち接続してて、ソーシャルサービスも使っていたらしい。
 助かる、これは悪くない。
 ペットレスの女に期待してるのは技能だけじゃなく、出会い活動で培っていた経験と勘もコミだから、引きこもった時にネットからも足を洗っていたかどうかはかなり気になっていた。できれば出会い活動も続けていて欲しかったが、それはそれで別の問題を引き起こしていたような気もする。それに、なんだかんだ言っても関係した男たちのトレースを完全に振り切っているっぽいし、接触から離脱まで勘は鈍ってなさそうだった。
 夜もふけて、俺と同様に腹をすかせたネコが騒ぎ出すまで、ペットレスの女はだらだらしゃべり続ける。あてもない話に付き合いながら、ふと鼻の奥に微かな、ちょっと刺激的なニオイを感じた。
 八角とにんにく、唐辛子、使い回しのごま油か?
 大陸から来て、そのまま居ついた近所の中国人が飯でも作ってるのだろう。その、いかにも胡散臭い大陸の空気を感じつつ、なにかちょっと安心するようなかつてのネット世界を、インターネットがこんなことになってしまう前の、そんな素晴らしく心地のよい、異常な快感と、仕事が遊びと同義だった連中の背中を思い出す。
 結局、話を終えて遅い晩飯を食ったのは、日付が変わった後だった。

 ターミナル駅で地下鉄へ乗り換え、待ち合わせ場所の喫茶店がある街へ向かう。ペットレスの女とネットの灰色仕事していた時には、ほぼ毎週のようにこの街をぶらついていたが、いつしかその仕事ともこの街とも縁遠くなっていた。
 再開発後に林立した妙に小綺麗なガラス張りのビルと、やはり最近の店らしいおしゃれなオープンカフェが並ぶ通りを抜け、これまた全面改装したばかりの超大型書店と高級自然食品店の隙間に潜り込むと、アロエやカネノナルキの鉢植えが並ぶ日当たりの悪い路地に、お目当ての喫茶店が見えた。雨ざらしでニスの剥がれ落ちた扉を押し、暗い店内へ入ると、インド綿のサマーストールを羽織るサブカル戦士の生き残りめいたメガネ女が、身体を縮めてコーヒーをすすっていた。先に来ているとは思わなかったので、慎重に相手を確かめつつ「待った?」と声をかける。
 自動読み上げアプリめいた平板さで「いやいやいやいや、大丈夫でしょ。いま来たばかりなのよぉ」と応えるペットレスの女は、あの頃からそのままそこに座り続けていたかのような、そんな雰囲気を醸す。ストールの向こうから見える深い胸の谷間も、タップリ肉をまとった腰回りもなにひとつ変わらない。ただ、眼鏡の向こうからほとばしっていた攻撃的な瞳の輝きは、いささかばかり力を弱めたかもしれない。
 とりあえず席についてあたりを見回すと、客は俺とペットレスの女だけだ。平日午後とはいえ、ちょっと嬉しくなるような幸運を噛みしめる。店のおばちゃんにデラックスアップルパイのセットを頼みつつ、飲み物を決めようとメニューをみたら、アップルパイの味と香りを引き出す当店オリジナルのブレンドティーなるポップがはさんである。
 以前はコーヒー専門店で、おまけのようにココアがある程度だったが、いろいろ変わってゆくのだろう。ただ、コピーの下に『イングリッシュブレックファーストを基本にコクを残しつつも渋みを和らげ、やや軽めにチューニングしました。控えめながら印象的な香りは、トーストや焼き菓子まで幅広くマッチします。もちろんミルクもあいますが、クリーム添えのプレートにはストレートでどうぞ』と、やけに具体的な解説が記してあり、自信のほどを表していた。
 もちろん、セットの指定はオリジナルブレンドのストレートティーに決まり。
 程なくしてホイップクリームにバニラアイス、プレーンワッフルまで添えられた、まさにデラックスなアップルパイのプレートとステンレスの小ぶりなティーポット、おまけにちゃちな砂時計までトレーに満載したおばちゃんがあらわれ、不器用に並べるとポットにコージーをかぶせ砂時計をひっくり返した。まだ新しげな紅茶用の食器からは、店主の意気込みも伝わってくる。
「相変わらず甘いモノ好きねぇ」
 その巨体からは想像もつかないほど小食で、おまけに甘いものが苦手なペットレスの女は、ちょっと呆れたような声を上げる。無言で微笑みだけを返し、砂時計を見つめながら「久し振りだね」とつぶやく。
「まだ、あの仕事やってるの?」
「開店休業ってとこだな。あれこれ細かいことやりながら食いつないでる」
「でも、お金には不自由してなさそうね」
「うん、おかげさんで……」
 俺の近況を雑に説明していると、最後の砂が落ちた。コージーを外しながら「食べていい?」とペットレスの女に告げ、曖昧な承諾を確認することもなく、温もりの残るカップへ茶を注ぐ。
 ふわりと立ち上る香りはたしかに癖などなく、むしろアノニマスなとらえどころのなさすらまとっていた。ひと口すすると、説明に書かれていたことは全て真実で、なんら誇張されていないことが舌と唇と喉へ伝わる。フルーティーな華やかさや酸味、甘みは影も形もない代わりに、嫌な雑味はもちろん、押し付けがましい渋みも感じられない。それでいてしっかりとした紅茶の味わいがあり、喉を通る穏やかなコクはとても心地よい。
 ブレンドのベースみたいなブレンド、ほとんどすべての要素が中庸に収まっている、なんとも不思議な味わいだが、たしかにこれならトーストにも焼き菓子にも合うだろう。感心しながらアップルパイに手を付けると、嬉しい事に記憶の味そのままだ。今度はワッフルにクリームを添え、そっと口へ運ぶ。サクッとした食感の生地もクリームも甘みは抑えめで、アップパイの引き立て役に徹している。
 紅茶をひと口すすって、またアップルパイへ戻った。全てにおいて中庸な茶の風味は、黒衣の大道具めいた手際良さで舌の上に残ったものを片付け、主役の登場を準備する。ここのアップルパイはアイスクリームを添えるパイ・ラ・モードではあるが、古風なアメリカンスタイルの重さを再現することなく、生地よりもフィリングに重点が置かれているため、割とモダンな味わいになっている。デラックスセットにワッフルとクリームを添えるのは、あっさり仕上げの生地を補う意味合いもあるのだろうけど、甘みを満喫したい時にはまさしくうってつけのデザートとなっていた。
 とりあえずアイスクリームを全部と、パイを半分ぐらい片付けたところで、ようやく仕事の話に入る。ペットレスの女は俺と組んで依頼人の弁護士、厳密には依頼人の代理人と仕事をしていたので解りが早い。
「覚えてる? 前に仕事した、あのビシッとキメてる弁護士さんがさ、またお仕事くれたんだな」
「え? また? あの人とは切れたんじゃ?」
「むこうから連絡あってね。もし、また組んでくれるなら、俺は受けるつもり」
「あぁ、そういう……まぁ、話はおうかがいさせていただきますよ。もう、そういう仕事はなぁって思うのですよ。けどね、お金もいる。モンちゃんのためにもさ」
 ネットで通話したときから、ペットレスの女があからさまに乗り気ではない、むしろ断りたい風情なのは重々承知だった。だが、なんだかんだ言っても打ち合わせに応じて、この場にいる。それも、俺より早く来ていたくらい。だいたい、ペットレスの女は性的な相手にも仕事にもツンデレなところがあり、さんざん文句をたれた仕事でも、引き受けたらきっちりこなしている。こんども最後には受けると思っていたし、仕事ぶりは信用していた。
 というわけで、弁護士から説明された内容を伝える。
 それは、世界的に有名な人工知能制作者が、彼女を誹謗中傷した人々と争われていた名誉毀損訴訟の和解がそれぞれ合意に達しつつあり、その条件として『和解に合意した点も含め、本件訴訟については両者とも今後一切口外しない。また今後は互いに相手方をソーシャルネットなどで言及しない。別のアカウントやメディアによって発信されたものも含め、上記条件に反した場合は、本和解案を公にしたうえ、左記違約金を……』などが交わされたと説明した。
 そのうえで、和解相手も含め人工知能制作者がソーシャルネットで粘着されそうになったり、デマを吹聴されたら、素早く察知して弁護士へ通報し、然るべき措置を講じるエビデンスを提供してほしいと、おおまかに言ってそういう依頼だった。
「うわぁ! マジ? でも、彼女と相互さんなのよ! ちょっと自慢なの」
「ちゅうわけでさ、ちょっくら監視と通報ギミック仕込んでほしい」
「追跡は?」
「なし。監視と通報だけ。ただ、当然ながら常駐管理」
 ペットレスの女は露骨に顔をしかめ、小さくめんどくさそうに「それ、いつまで?」とつぶやいた。
「そりゃ、早いほうが……」
「ちっがうのぉよぉ! いつまで続けるのってこと。もしかして、エンドレスではありますまいか?」
「いや、そのまさか。受けてくれたらパスとアドレス、それから管理用の端末は提供してくれるから、管理者権限でいろいろできるよ」
「え? マジすか? それ、ゼッタイまずい。どう考えても荷が重いわぁ。だいたい生活あるし、モンちゃんのお世話だって……」
 ありえないと言わんばかりに首をふるペットロスの女に、俺は完全リモートでいいし、人工知能技術者もサポートすると、監視アプリについても運用しながらカスタマイズして精度を高めるなど、可能な限り負担を減らすと言ってたらしいなどと伝えた。
「うはぁ、まずいね。すごく、まずい。ますますプレッシャーかかる」
「あぁ、そうかもしれない。ただ、これは……」
「わぁってる! またとない機会だし、底辺貴腐人からの一発逆転だって夢じゃない。でもなぁ……」
 ポーズでもなんでもなく、ガチで頭を抱え、重圧にうなだれるペットレスの女をみながら、俺の眼差しは深く、むっちりと豊かな胸の谷間に吸い寄せられ、話もほとんど聞き流していた。
「いいや! これもタニシのエニシ。受けますよ! で、監視対象は?」
 ペットロスの女が半ばやけっぱちのように言い放ったときも、俺はたゆたう谷間を見つめたままだった。
「おい! 真面目にやれ!」
 というわけで、監視対象をペットロスの女に伝える。女性学の教授やジェンダー方面の作家、評論家、はたまたネット論客、イキリのオタク、挙げ句に政治家など、老若男女を問わず多士済々、そればかりか和解交渉の進捗によってはさらに増える。ただし、詳細は人工知能制作者と面談するまでわからないと、ざっくり説明した。。
「うへぇ! ほんま、人間のやるこっちゃないしょ」
「うん、だから基本ボットでいいよ」
 ペットレスの女は眼鏡越しに俺の目を見ながら、ほとんど唇を動かさず続ける。
「ボットは候補を提案しますし、設置もして差し上げますよ。最初の通知ワード選定もやりますからね。ただし、独自のボットを使うなら、レクしてほしいです」
「もちろん。報酬は弁護士さんの提示額でいい?」
「いや、見積もり送るですよ。できればその時にバンスくれると嬉しい」
「着手金だったら、すぐでもいいよ」
「うーん、いまじゃなくても大丈夫。でも、ありがとう。モンちゃん年寄りだから、病院代かかるのよ」
「他に仕事は?」
「いまはないけど、探し中だったわ。モンちゃんのお世話しなきゃならないでしょ?」
 俺は無言でうなずくと、人工知能制作者関連の情報を記録したメディアを渡して、暗号の解除方法と消去手順、そして物理破壊時の注意事項を伝えた。その他の細々した伝達事項も含め、ペットレスの女は黙々と腕にメモを書き記している。
 要件が一段落したところでポットの紅茶をカップへ注ぎ、アップルパイの残りを片づけにかかった。気が付くと、メモを書き終えたペットレスの女は帰り支度を始めている。急いで伝票を確保し、ここは俺がとアイコンタクト。ペットレスの女が「ごちそうさま、ありがとう。見積はいつものとこ送るから」と席を立ちかかったところへ、俺はずっと気になっていたことを口に出した。
「モンちゃんって、やっぱモンブランなの?」
「なんで?」
「前の子がシフォンだったから」
「違うよ。モンテスマ」
「なんで?」
「人喰いだもん」
 ペットレスの女は、軽く微笑み返した。

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