見出し画像

無礼で非倫理的な路上写真の黄昏 El ocaso de la fotografía callejera sincera y no ética

Ethical Street Photographyもしくは、それに類する言葉を目にする機会が増えた。路上撮影の本場たるニューヨークでさえ、もはや同意を得ない撮影のリスクは無視できないらしい。
まぁ、自分自身も同意を得ない路上撮影は社会的、あるいは倫理的な逸脱行為だと思う。それ相応の批判、時には制裁さえ覚悟しなければならないだろう。
ただ、同時にEthical Street Photographyとか、そのへんの議論に、詭弁めいた胡散臭さや、思慮の浅さを感じている自分もいる。
被写体のプライバシーや文化的背景に配慮というのはわかるし、自分でもバランスを取ろうとしているつもりではあるけど、例えばイスラム教徒の女性を撮影しないとか、それはどちらかといえば自己防衛不必要に自己を危険にさらさないための配慮だったりもする。それに、配慮した作例ってのが後ろ姿だったり、顔を不自然にフレームアウトしたりで、むしろ隠し撮り感が強まってたりして、なんだかなぁってのもある。
また、同意を得ましょうってのもわかるし、それに対して被写体の意図せざる瞬間に踏み込むのがストリートフォトだって息巻く撮影者のお気持ちも、まぁわからなくはない。
とはいえ、同意を絶対視する向きには、胡散臭さがつきまとう。
そもそも、同意にどれほどの値打があるのか?
撮影現場でいきなり求められた同意が、どれほどの思慮に基づく決断なのか、なんとなく流されてるだけなのではないかとの疑問はあるし、もっと言うなら同意を求められただけで撮影されたのと同じくらい不快って人も少なくない。
結局Ethical Street Photographyっておためごかしじゃないかと、そんな気持ち、それこそお気持ちが芽生えてしまう。

ただ、特にデジタル画像の拡散性から、不同意撮影に対する拒否感、警戒心、恐怖感は強まる一方だし、もはや踏み込んだストリートフォトは逸脱というより加害に近い扱いとなっていくだろう。

かつてのハプニングアート、ハプニングパフォーマンスが、単なる迷惑行為として排除され、ギャラリーやシアターでの予告されたハプニングとして無害化されていったように、ストリートフォトも撮影に同意した被写体が演出された不同意を演じるようななにかとして無害化されていくのだろうと、そんな考えに浸ってしまう。

まぁ、なにかが終わっていく瞬間に立ち会えるのも、ひとつの幸運じゃないかと思うし、それまではせいぜい楽しんで撮影させていただければと思う。

¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!