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骨付き豚のソテーとクリスマスのステキなお知らせ

 別れ際のキスは、これからもういちど交わるのではないかと思うほどに熱く、情感がこもっていた。わざとらしいほど濃く、強い香水の香りをまといながら、それでも風呂のニオイがしないかどうか最後まで気にしていたのは、なにごとにも抜け目ない女友達あいつらしい振る舞いだった。
「ごめんね、ダンナが『やっぱイブは家で過ごす』なんていっちゃってさ」
 ディナーの用意が無駄になっちまったとか、ふたりぶんの食材をどうしようとか、そんなどうでもいい考えをうだうだもてあそんでいた俺は、なかばうわの空だった。なごりおしげな女友達あいつにも「年末の平日でも定時であがれるっての、むしろえぇ話やろう」とか、なんの慰めにもならない言葉を放り投げてしまう。
 しまったと我に返ったのは「そかそか、いまからでも誰か呼ぶなら、私のも食べちゃっていいからね」と、女友達がめったにないほど鋭い口調でトゲのある言葉を突き刺したときだった。
「あ、ごめん。ちゃんと聞いてなかった」
 反射的に謝る俺だが、女友達は「ううん、いいの。あなたはそういう人だし、そういうところもふくめて好きなんだから」と、フォローだかダメ押しだかわからない言葉をまきちらし、さらに意味深な笑みを浮かべながら「へへ、ちょっと傷ついた?」なんて、反応に困る言葉を添えた。
 俺は肯定も否定もせず「夕食にはちょっと早めだけど、肉を焼くよ」とだけ返す。
「ほんとに誰か呼んでもいいんだからね。気にしないから、わたし」
「おいおい、なんだか呼んでほしいみたいだね」
「うん、たいていのひとは無理だろうけど、あなたならこのタイミングでも呼べるんじゃないかなって? ちょっと思うの」
「いやいや、あおってもだめだよ。流石に無理だろう」
「つまんないな。呼べたら私にもおすそ分けしてもらおうって思ってたのに」
「そんなこったろうと思った」
 まるでさっきのトゲトゲしさはなかったかのように、俺と女友達はじゃれあう。ふたたび名残り惜しげに唇をあわせると、女友達は「ほんとにいくわ、注文したディナーが届いちゃう」って、慌ただしく階段を駆け下りていった。
 女の足音を聞きながら俺は台所へ引っ込み、エプロンを着ける。冷蔵庫の骨付き肉は既に味がついているから、後は焼くだけだった。
「宅配ディナーか……」
 口に出しながら、女友達が注文した料理店の動画広告を思い出す。

「画面、ちょっと見てみ」
「おぉ! ハピホリ! まだ使ってるんだ」

 じゃれつきながらスマホの画面にみいるふたり。パンイチの女が身を乗り出すと乳も肩から首筋へせり上がり、柔らかさと重量感がたまらない。とはいえ、こうしてたまに楽しむぐらいだから良いのだろうなと、日ごろ肩こりや肋間神経痛に悩まされる彼女を思い、乳に言及するのは自粛したんだっけ。
 スマホで予約したコースを見せる女友達に『かきいれ時なのはわかるけど、ネットでバンバン注文を受けても大丈夫なの?』なんて素人くさい疑問を投げかけたら、ちょっと驚いたような顔をしてたっけ。女友達によれば、最近は三ツ星クラスの店でも繁忙期は別に宅配用の厨房を用意し、それを短期契約の料理人で終日稼働させるんだそうな。だからイブの注文でも直前、なんなら当日までうけられるらしい。
 まぁ、俺はこの手の出前だか宅配だかのサービスが流行り始めたころから、どうにも好きになれなかったし、利用もしなかったから、どのくらい注文が込み合うのか、まったく見当もつかなかった。
 いや、そんな宅配サービスも、俺の世界と関わりがないわけではない。たとえば、いきつけの中華屋は宅配サービスでかなり儲けているようだった。それに、前に行った請負仕事の現場は、社長が宅配サービスで昼飯を取ってくれてたっけ。まぁ、そこの社長も仕事も……いや、その手の悪印象とサービスを結びつけるのは良くない。良くないんだ。
 頭をふって気持ちを切り替える。
 まず最初に肉へラップを被せて、電子レンジにかける。低温調理モードで肉を温める間に、使い終わったまな板や包丁を洗って格納する。この台所は工程ごとにいちいち調理器具をしまわないと作業空間が確保できないほど、狭いのだ。そして、つけあわせのコンソメスープを鍋で温め始めたところ、音声通話の着信音が鳴り響いた。
 ポップアップしたアイコンは、夏にトークライブで知り合ったショートカットのちょっと猫っぽい娘のそれ。
 なにせ、クリスマスイブの夕暮れどきだ。若い娘からの着信にときめくなという方が無理だろう。それに、さっきのやり取りもある。
 とりあえずコンロの火を止め、スマホを手に取る。
「おまたせ」
「ごめん、忙しかった?」
「ううん、大丈夫。おひさしぶりだね」
「うん、でもこないだは相談に乗ってもらったし。だからちゃんと検査にもいったのよ。それより、イブだけどホントいいの?」
「あはは、ありがとう。あぁ、きょうはイブだね。でもかまわないよ。それより、なんかあったんじゃない?」
「わかる?」
「うん、実際なにもなかったら、俺に声かけないでしょ?」
「そ、そうね……」
 スピーカ越しにもはっきりわかるほど猫っぽい娘の声は暗く、心配症の自分にはどうにもこうにも嫌な予感しかしない。よせばいいのに、先走って「話したくないなら、今やなくてもえぇんやで」などと、妙な関西弁で話の腰を折りにかかってしまう。しかし、猫っぽい娘は冷静に「いいの、聞いてもらうつもりでかけたんだから」と返す。
 猫っぽい娘に話を続けるよううながすと、情けなさとめんどくささを混ぜてこねたような声であれこれつぶやいたあげく、ようやく口にしたのが「今日、検査の結果が届いたのね」だった。
 瞬間、俺の脳は警戒態勢デフコンのレベルを上げた。もし、猫っぽい娘が「ヨウチリョウなんだけど、病名は……たぶん……キンカンセンショウ……だと、思う」と続けなかったら、同意書に名前を貸すかどうかを考え始めていたろう。
「リンキンカンセンショウね。リンキン・パークでもリンリン病でもないよ」
「なに、リンリン病?」
「いや、リンリン病じゃなくて淋病。リンリン病はリンリナン症候群LynLynan's Syndromeの別名で……って、ごめん。茶化していい話じゃないね」
 ギリギリどころか、通話を切られてもしかたないほどくだらない混ぜっ返しだ。リンリン病はもちろん、リンキン・パークだって若い娘には厳しいネタだろう。そもそも、こんな状況でネタをフルほうがどうかしているのだが、フラずにおれないほど衝撃の強い知らせでもある。
 動揺を抑えつつ、とりあえず猫っぽい娘に『感染相手の心当たりはあるか? 自覚症状はないのか?』などと問いかけてみるが、いずれも要領を得ない。自覚症状が全くないのはともかく、夏にトークライブで知りあう前後からクリスマスまでの半年に、だいたい20人弱の男性と性交渉し、必ずコンドームを使用したとは言い切れないと、そういった状況であった。
 猫っぽい娘から最初に相談を持ちかけられたときは、妊娠の方を心配していた。正直なところ、それにくらべれば淋病のほうがまだ気が楽というか、治療すればよいだけだからな。ただまぁ、それにしたって、ずいぶん気前よく関係したものだな。
「女性の淋病って、自覚症状はないことのほうが多いからね。オリモノは多い方?」
 ほとんど幼児に話しかけるかのように、優しく訊いてみても、猫っぽい娘は「うぅん、あまり良くわからないけど、たまにドロッとしたのがでたりもしたかな」と、やはり曖昧な答えだ。とはいえ、それだけ聞けば十分だった。
 結局、今からすぐにでも病院へ行き、治療を始めること。そして、肉体関係を持った相手【全員】へ連絡して、すぐに検査を受けるよう促すこと。そのふたつは【絶対にやらなければならない】と、娘へ強く言った。幸か不幸か、関係を持った相手は、ほぼ全員の連絡先を把握していて、日頃からやりとりしてる相手も少なくないため、ツテを手繰って人探ししなくても良いのは楽だ。
「それにしても、モテモテだったんだね」
「ううん、ほとんどサークルの先輩や仲間だから。モテ期じゃないよ」
「サークラじゃん……いや、なんでもない」
「でも、イブに連絡すると、男はみんな期待しちゃうよね」
「それはしょうがないよ。でも、はっきり言わないと、病気をプレゼントしたことになっちゃうかもよ」
「そうよねぇ、こんなクリスマスプレゼント、みんな嫌だよね……」
「連絡するの手伝おうか?」
「おじさんが? ハハハ、ウケるね」
 猫っぽい娘の腑抜けた笑いをスピーカ越しに受け止めながら、すぐに病院へ行くよう強くうながして、なんともしんどい通話を終えた。
 スマホの画面が暗転すると、なんだかぐったりしていて、さっきまでなにをしていたのかもわからなくなっている。あぁそうだ、肉を温めていたんだっけ。料理でもして、気持ちを入れ替えるか。
 頭をふって洗面台へむかい、ちょっとしつこく手を洗うと、電子レンジから肉を取り出す。
 いちど温まっていた肉だが、流石に冷めていた。脂が固まっていたのでレンジに戻し、軽く熱する。脂を溶かすと、表面の汁を軽く拭き取った。プレートの肉汁はバットに残ったつけダレと混ぜ、今度はフライパンを温める。既に骨までしっかり加熱しているから、後はタレを染み込ませながら表面をパリっと焼くだけだが、ここでしっかり焼きこまないと食感が非常に物足りなくなってしまう。
 しっかり色をつけると、火を少し細めてバットの汁とタレを入れ、肉をひっくり返しつつ、タレをしっかりからませる。いい感じの艶が出たら蓋をして更に火を細め、レンジ周りや床にの飛び散った油を雑に拭きとった。最後に、もういちど強火で肉の皮をカリッと焼いたら出来上がり。
 肉と付け合せのカット野菜を皿によそってスープを汁椀へ注ぐと出来上がり。
 独りで座卓と向き合うころにはすっかり日も暮れて、窓の外にはイルミネーションのひとつもない、再開発地域の暗闇が広がっていた。小さなケーキにローソクを立て、スパークリンググレープジュースをかかげ、心のなかで乾杯すると、ディナーというにはあまりにもささやかなクリスマスの食事を写真に撮る。
 骨までしっかり火を通してあるから、ぶ厚い肉でも食べやすかった。肉は汁気たっぷりでも、皮はカリッと香ばしいのは、われながらちょっと嬉しい。女友達あいつが自宅の近所で買ってきた、バゲット生地の小さな丸パンをちぎり、皿の肉汁を染みこませると、これまた自画自賛したくなるほどにうまい。和風の汁椀へ装われたコンソメスープがクリスマスの食卓に強烈な違和感を放っているのだが、味は良いのだから、まぁご愛嬌ということにしよう。
 独りでうまい、うまいと言いながら肉を食べ終えると、ちんまりしたケーキを切り分ける。最近はメッセンジャーのアイコンぐらいでしか見なくなった、いかにも昭和臭いイチゴのケーキをもふもふ食べ、だれもいないちゃぶ台の向こうにほほえみ、芝居がかった仕草で紅茶をすする。外見そのまま、バタークリームのどっしりした重い食感だが、生地もクリームも記憶のそれとは比べ物にならないほど美味しくて、昭和レトロそのものの貧乏臭さからは想像もつかない味わいだった。
 簡単に食器を片付け、とりあえずフライパンだけタワシで洗う。
 部屋へ戻ったところで、当然ながら誰もいない。
 無人の部屋でちゃぶ台にならぶ食べ散らかされた肉やケーキをみていると、なぜかネットミームと化したスポ根アニメの場面を思い出し、泣けるような笑えるような、なんとも奇妙な感慨が押し寄せる。
 まぁいいさ、食器を片付けて風呂にでも入るかとかがみ込んだところ、スマホの画面がぼぅっと光った。
 猫っぽい娘からメッセージだ。
『いまから、おうかがいしてもよいですか?』
 俺は文字列を確認すると同時に『もちろんいいよ。駅まで迎えに行こうか?』と入力していた。


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