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サブカル大蔵経65『松浦武四郎とアイヌの大地』(ダイアプレス)

 執筆者・鈴木義昭の好仕事。乱立するアイヌムック本の中でも、偏った立場にならない稀に見るバランス感覚で紙面を編集。武四郎を通してアイヌも旭川もフューチャー。瀬川、本田両先生らのコメントも秀逸。武四郎の生涯、20年間アイヌ、その後死ぬまでガラクタ博物マンも、アウトサイダーアートマン的で非常に現代的。

武四郎は22歳から24歳まで平戸で臨済宗の寺の僧侶を務めていた。仏教への関心から、唐・天竺まで渡りたいと、16歳で家を出る時手紙に書いた。対馬から朝鮮半島に渡るとするが鎖国に阻まれ、かなわない。p.11

 明恵上人以降の「インド行きたい僧侶」の伝統、武四郎もそうだったとは!それが博物につながるのは嬉しい。

1844年2月25日伊勢神宮を出発。京都.大阪.近江.長浜.鯖江.福井.加賀.立山.柏崎.新潟.会津若松。津軽半島の鰺ヶ沢に着いたのは9月の事だった。p.11

 北陸道から柏崎、新潟、会津若松のルートか…。

蝦夷漫画。イランカラプテは現在ではこんにちはと言った挨拶の意味で知られるが、ここでは改まった正式な礼法として解説している。p.43

 そうなんです。「イランカラプテ」は、もともと軽々しく交わせる言葉ではなかったはず。金田一さんの本に、「イランカラプテ」だけで、アイヌの狼藉者が土下座せんばかりの姿勢になったと書いてあった。

瀬川拓郎。北海道命名150年は和人にとっては誇らしい歴史ですが、アイヌにとっては差別と文化の喪失と言う負の150年に他なりません。この相容れない2つの150年をすり合わせるものとして浮かび上がってきたのが松浦武四郎だったのだと思います。p.49

 オリエンタリズム的かわいそうなアイヌ観を払拭し、本来の姿のアイヌを伝えようと研究されている瀬川さんが、あらためてこう言ってくれたのは説得力ある。

北海道の人は日本国民ではあるけれど文化的には真正な日本人ではないと言うデラシネ的な疎外感を感じていたのです。一方北海道はアイヌが暮らしてきた土地で、移民の子孫である私たちの歴史はせいぜい2、3代までしか遡れません。北海道の人は、本土にも北海道にも居場所がありません。p.50

 瀬川さんのこの視点を道民がもっと共有したい。

川村久恵。近文アイヌ部落は大きな集落となりました。そこには石狩川の支流が流れ、鮭の産卵場があり鮭の捕獲には適していました。p.61

 川村カネトアイヌ記念館。公の支援を受けれずにいるこの場所に、旭川市民はどれだけの人が関心を持ってるか?私もお客さんをお連れするときしか足を運んでいない…。通り過ぎているだけ…。なぜか。

戦後観光を象徴する北海道木彫り熊。それに2つの始まりがある。明治の末ごろ旭川のアイヌの家庭雑貨や民芸の木彫から木彫り熊を彫り始め、名人といわれたのが松井梅太郎。もう一つは八雲町から。尾張徳川家徳川義親がスイスベルンで買った木彫りの熊をお土産に送り奨励したと言う。p.62

 旭川でも一部研究が始まっている熊の木彫り。旭川市民は関心ない。観光客の土産だから。しかし、そこに歴史背景や文化があることが少しずつ公表されてきている。

松前藩は米が取れないから無高だったが、その格式は一万石の大名と同じとされ、対馬の宗氏とともに別格の扱いだった。p.71

 松前藩が日本最大の謎であり、移民社会のこれからの日本の鍵になるような。

阿寒で彫刻の実演をたまたまやっていた時、鎌倉から卒業旅行で遊びに来た女性と知り合うんです。それで結婚することになった。彼女は鎌倉で澁澤龍彦の家に出入りしていた。それでビッキも鎌倉に行き、いろいろな芸術家と出会う。p.91

 『龍彦親王航海記』にあった記述が、ビッキ側から!両方読めて嬉しい。乱読の醍醐味。

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本を買って読みます。