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知の生成:『総合ー人間、学を問う』まであと2日(とちょっと)

こんばんは、MLA+研究所の鬼頭です。日付が変わる頃に記事を投下致します。単に、私が明日は所用があるので、ちょっと早めに記事を出したというだけです。もうあと2日で当日となります。

2日前ですから、企画のはなしを少しさせて頂きますが、オンデマンド動画配信+23日木夕刻のzoomオンライン座談会(事後に一部を除いて、録画配信予定)を、共通のフォームからお申込み頂くもので、テーマは「人間」や「総合人間学」について考えるという集まりです。

少なくとも、公開収録前日の22日水までにお申込みくださった方に関しては、座談会の録画配信を含め、「参加費無料」です。
つまりあんまり派手に告知をしていない企画をわざわざ見つけて、参加申込フォームというハードルを超え、「公開収録」に何らかの形でご参加くださった方への特典として、22日水までにお申込みくださった方は「参加費無料」にさせて頂いております。
もう1つの特典は、23日水の公開収録後に、録音を停止して、参加者と登壇者とがオンライン上ではありますが、直接、交流する場を設けるというものです。
さらに、当日ご参加になれない方も含めて、参加者に質問やコメントをして頂くことができ、その内容が「公開収録」に反映されることもある、というのも特典でしょうか(遅くとも、24日金には質問やコメントの受付を終了致します)。

23日木0時頃に一度、募集事務を停止致しまして、座談会の録画配信が準備出来次第再開致しますものの、その後の動画ご視聴のお申込みには新書程度のご参加費を申し受ける可能性がございます(もっとも、経済的なご事情がある場合には別途、個別にご相談のうえ、柔軟に対応致します。動画配信終了は7月下旬を予定しておりますが、詳しい配信終了日時は追ってHPやお申込みの方に告知を致します)。
ですから、少しでもご興味がある場合には、22日水までにお申込みを頂けますと、やや「お得」かもしれません。
オンラインの企画というのは、簡単にアクセスできることがその利便性ですが、私はそれに全面的に乗っかることを、今回の企画では自重しております。
興味はあるけれど時空間が合わないとか、何らかの超えられないハードルがあるということにはオンラインの利を活かす所存ですが、AでもBでもCでも構わないが、とりあえず何かを消費したいというところからは、遠くありたいと思っているからです。
そのため、少々、企画までのアクセスは他のオンライン企画に比べると、手間がかかるように感じるかもしれませんが、すでに募集段階から企画に合わせた募集方法を模索していた、というわけです。

さて、昨日積み残してしまったわけですが、
>「まねび(真似)=模倣による変化」っていつ「やって来る」んだろう?
という問いでした。

>積み上げ式の学びはしないより、した方がよい。語れる道具が増えるから。ただし、いつかその積み上げ式の学びでは歯が立たない問題に出会うし、そのときにその学びを手放す限りにおいて。
というはなしも最後にチラッと書きましたね。

今日はいきなり結論から書きますが、現在のアカデミックの世界は、目的に応じて、結論を先取りしているという意味において、少なからず、上柿さんの言う〈意のままになる生〉に親和的な構造を持っているのかもしれません。
〈意のままになる生〉のはなしは、昨日の記事をご覧ください。

例えば、論文に要約を付す分野が広がっている慣習も、その1つかもしれません。
要約を見て、読むに値する論文かどうかを決められる読者がいる、というわけです。
そして、分野を問わず、論文であれば、このように書くべきだという形式を〈予め〉決めてしまいます。
読みやすくなるという理由からですが、主張や思想と切り離されて文体を〈予め〉定めてしまうわけです。
しかし、もしこの慣習を当然だと思っている人がいたら、小説や漫画のネタバレやファスト映画、wikipediaを批判する資格は持てないでしょう。

論というのは、目的に応じて、自説に都合の悪いことが出てきたら、それを取り入れて改変する、あるいは異論をぶつける、反論する過程を経て、漸く結論の輪郭が明らかになっていくものです。
その過程で、その分野自体の持つ限界とか、制約も次第に見えて来ます。
もしここで、「私はその問題には関心がないので…」、あるいは「私はその問題には詳しくないので…」、または「私の分野の専門ではないので…」、はたまた「私の分野では、××が〇〇と語っていて云々」と済ませてしまったら、「われわれ」は永遠に何かを学ぶタイミングを逸し続けることになります。

この話は、何でも万遍なく学べ、という勧めでは決してありません。
●●という分野ではこう論じられていて、××という分野ではそう語られているという話を延々としても、あるいは●●さんの本ではこう語られ、××さんの論文ではそう語られているということを、いくら積み重ねても、そのはなしが「総合」に至ることはないでしょう。

人間の有限な存在形態を鑑みる限り、万学に精通していることは、そうそうありそうなことにありません。
例えば、この連載でたびたび名前を出しているマイモニデスですが、ユダヤ教の古典に精通するだけでも、人生はあまりにも短いと言わざるを得ません。
しかし、マイモニデスほど碩学でも、人生の最初から、十分に古典に精通したから、迷いなく生きてこれたというわけではありません。
マイモニデスが古典を糧に生きていることは間違いありませんし、それに精通する努力を人一倍地道に重ねてもいるわけですが、日々の生活の仕方に対する答えが直接、見出せているわけではありません(小説におけるマイモニデスの人生最大の難所は、弟との別れです。彼はその頃には間違いなく碩学になりつつあるわけですが、現実は彼に容易くは超えられない人生の壁を突きつけます)。

彼は医術の心得もあり、どの程度通じていたか、その全貌が分かるとは言えませんが、他の諸学にも通じていたとされます。
幼い頃から勉強家だったのでしょうか。
ヘッシェルによると、幼少時のマイモニデスは父の教育が嫌で家出したようですし、この設定は中村さんの小説の設定としても活かされています。
マイモニデスが万遍なく教育されたのは確かで、彼の学問の基礎となったことは確かですが、単にそれだけなら秀才ではあっても、歴史に記憶される人にはならなかったように思います。
(ちなみに、哲学者のJ.S.ミルもまた、父の英才教育に苦しんだ1人で、天才ですが、彼もまたその英才教育を基礎としながら、そこを超えていくまでには、恋愛を含んだ、人生のドラマが控えています。)

この2人から見えてくるのは、博識であることは学の「必要」条件ではあっても、「十分」条件ではなさそうだ、ということです。
ざっくりとした意味で、東洋に目を向けて見ても、禅にせよ、王陽明にせよ、学が博識であるだけでは、学は成就しないということを暗示しているように思います(禅というのは、元々諸学を兼修した秀才や天才がその門を叩くエリート向けの教えですし、朱子学を徹底しようとノイローゼになるまで竹の「理」を見極めようとして挫折し、「心」を掘り下げていった王陽明は当然、朱子学にも通じていたはずです)。
けれど繰り返しますが、博識というのは、学の「必要」条件ではあり、その意味では不要なものではありません。
そしてその博識というのは、少なくとも自分で勝手に世界に線を引かないことに尽きると、私は思います。
何がある事柄に無関係であるのかは、微妙な問題で、ある学知における研究というのは、「考えるべき」ことを共有すると同時に、「考えなくても済む」ことも共有されてしまいますので、効率性と落とし穴というのはトレードオフ(つまり、どちらか一方が犠牲)になりやすいということです(人間が議論での「検証」を前提に、バイアスを進化させたという仮説があるくらいです)。
つまり、「無関係」であるように見えていたが、実際には「繋がっていた」ということが、世の中にはありふれているということでもあります。

この無関係に見えているも、繋がっていることもあるということが、専門という深く掘り下げることが必要でありながらも、そこに落ち着いてはいけない理由です。
日常を生きているだけ分かることだと思いますが、ある学の体系だけで、すべてを押し切ることはできません(押し切ることで、納得する人は見かけますが)。
かと言って、出会った問題に全く取っ掛かりがないと、「われわれ」はその前で右往左往するだけで終わります。
酷い場合には、過去には上手くいったという理由だけで、自分の限られた視野で形成された経験則を過信し、実際にはその経験則が成り立つ条件を見落としていて、時に手痛い目を見ます。

専門が必要な理由を、もう少し補足しましょう。
何かを深く掘り下げた経験というのは、他のことを深く掘り下げる経験を理解することに役立ち、時に〈共鳴〉もするのです。
別々の分野でありながら、似たような問題を考えている場合には、特に見えやすいことですが、あんまり共通項がないときにも、〈何か〉がきっかけとなって、ふいに閃くということがあり得ます。
比喩的に言うと、別々な深いトンネルを地下に向けて掘っていて、ふと隣を掘ってみたら、握手のできる誰かとふいに目が合ったという感じです。

このはなしも、ある物語に語ってもらおうかと思います。それはアニメ『まおゆう/魔王勇者』第10話で、善良な魔王が言う台詞です(この台詞の文脈が知りたい方は、実際に作品をご覧頂くか、日本博物館研究所(JILIM)(https://sites.google.com/mel2015.com/jilim/home)での連載で近いうち取り上げますので、そちらをご覧ください)。
>遠い遠い触れ合えないはずのところから私に会いに来てくれるんだよ。そりゃ、手にした剣は私を殺すためかもしれないけど、殺される前に「こんにちは」くらいは言えるだろう。奇跡でも起きたら、(筆者注ー勇者の)あの黒髪に触れさせてもらえるかもしれない。
少しだけ補足をしますが、要するにこの善良な魔王は、やはり善良な勇者が自分を倒しに来るのを、今か今かと、楽しみに待ちわびているわけです。
もし、学際的に「総合」を行いたいと考えるなら、この善良な魔王のように、「遠い遠い触れ合えないはずのところ」から「知」が会いに来るのを待って、その「知」あるいはその「知」をもたらした事物・人との、時に緊張を伴うかもしれない「出会い」の「奇跡」を、最初に強く〈確信〉していなくてはなりません。
もっとも、「奇跡」とあるくらいなので、常に上手くいくことではないのですが、それが「出来事」というものの性格です。
そして、このような出会い方だけが、知が生成(≠知を形成)することに唯一寄与することであり、「意のままになる生」の延長では、乗り超え難い突破口として、複数の人が議論するに値する問題をもたらします可能性はありません。
そうでない限り、問題を設定した時点で、既に答えが半分以上は出ている問題を、あたかも新しい難問であるかのように解いているにすぎません。
そして、そのように考えているだけなら、論者にとって答えが見えている問題を再提示していることになり、論者自身で結論が殆ど出ている話をしていることになりますから、その議論が盛り上がることは殆どありません。
万一、盛り上がったとしても、その議論を好む人同士が、お互いの「好き」を確認し合う場と化しているにすぎません。
今回の企画は、あくまでも、
>「遠い遠い触れ合えないはずのところ」から「知」が会いに来る瞬間
を、これを待ちわびているわけです。

企画のご案内をして、かつエッセイの方も相当、字数オーバーしてしまいました。
今回の書き物は、要するに、知は意のままに形成されるものではなく、意のままにならないものに促されて生成されていくものだ、というはなしです。
だから、好むと好まざるとに拘わらず、「意のままにならない人」と話す意味がある。
そのような場で見出された問いは、きっと「遠い遠い触れ合えないはずのところ」を垣間見させてくれるんじゃないか、というわけです。

「総合」、「学」あるいは「知」に関する書き物はこれくらいにしておきましょう。
この数日でまだ論じられていない問題があります。それは「人間」に関することです。
それでは、また明後日(もし、回儒が言う天がお望みになるならば)。

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