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「お互いに楽しい」遊戯王とは何か

「お互いに楽しくなれるデュエル」とは、何なのだろうか。私は、あるフリー対戦を終えそれを考えていた。


こちらの使用デッキは【捕食植物】に【リンクグッドスタッフ】の要素を足したもの。相手は【陽炎獣】だった。お互いに誘発も妨害もない、それだけの条件であった。
結果で言えば、こちらの圧倒的な勝利であった。《アクセスコード・トーカー》と《スターヴ・ヴェノム・フュージョン・ドラゴン》によるワンターンキル。
相性や手札の都合はあれど、お互いのデッキパワーに大きな差があったと言わざるを得ないほどの圧倒で、あっという間に勝敗がついてしまった。
こんな対戦を見せながら「フリー対戦はお互い楽しく遊べる場です!」などと言えば失笑どころか罵倒さえ受けるかもしれない。
私は、手加減し、展開をやめるべきだったのだろうか。
私は今も答えを探っている。

デッキやカードは「共に戦う仲間」だからこそ


ロマンチストと呼ばれるかもしれないが、自分は自分の選んだデッキやカードに思い入れがある。
1万種以上もあるカードの中から出会った、かけがえない仲間だと思っている。だからこそ、手を抜かずに活躍させたい。彼らの全力を引き出し、共に勝利を得たいと願う。


しかし、それは相手も同じはず。私は手加減をせず全力で戦ったが、それは敬意などとは呼ばず、相手の楽しみの邪魔をしてしまっただけだったのだろうか。
「お互いの全力を出し合って」楽しく遊ぶことが、こんなに難しいとは思いもしなかった。

それを踏まえて相手側から見てみれば、一方的な勝負とは、大切な仲間が相手に蹂躙されることを意味する。
それを楽しいデュエルだったと言えるのだろうか。断じてそんなことは無い。
そうならないためには、手加減をしたプレイングをするか、お互いのデッキパワーを揃える必要がある。 「拮抗した勝負を演出する」のだ。

勝負と「手加減」について

まずは「手加減をしたプレイング」について話そう。

ここでの手加減とは、相手のLPを削り切れる場面で倒さない、と言ったことを指す。

相手の展開や行動を止めない、というのは決して相手の実力やデッキ、状況に左右されることではないし、そういう場合は大体予告した上で「お互いに」それを行うため、「一種のルール」とも取れる。

しかし前述の「決着可能とわかっていながらターンを渡す」行為は、明らかにこれとは異なる。相手の余力を鑑みた上で行うことになり、また、明らかに無礼と考える人もいるものである。

そして、これは善悪を語る訳では無くただの個人の主観として受けて欲しいが、私は手加減を「相手に対する無礼」と捉えている人の1人だ。
「あなたは弱いしすぐに倒せるが、自分が楽しむために一思いにやらず生かしてやる」
「お前では普通に戦う上では相手にならない」と言われるのと同義だ。

違う言い方をすれば「舐めプ」「完全有利な状況からの煽り」とも言える。不思議なことに、一気に嫌悪感のある言葉に成り代わった。

仮に自分がやられても、楽しみたい気持ちは理解できるし、面倒事になるのも避けたいのでとやかくは言わないが、逆に自分からやるのは絶対に許せない。
ゲームは相手がいなければ成立しないし、相手には敬意をもって接するべきだ、手加減はそれに反する行為だ、と考えていたからだ。だからこそ、冒頭のデュエルでも手加減をせずワンターンキルに踏み切った。

そもそも、気心の知れない相手とやる場合では、相手が「手加減」についてどう考えているかも分かっていない上、仮に否定的だった場合には怒りさえも買いかねないリスキーな行為なのだ。

このように、全ての人が手加減をすることもされることも許容してくれる、とも限らないのが世の常なのだ。手加減をするのはなるべく避けたいことである。

デッキパワーの調整と「好き」は両立できるか


では、デッキパワーをお互いに調整することで拮抗させる場合はどうだろうか。

「パワーの低いテーマを使う方が悪い!強い側は何も考えなくてよい!」と考える方もいるかもしれない。
しかし、勝敗のみが全てであるガチ対戦ではともかく、過程も重視するフリー対戦では、それは間違いである。
相手のそのデッキだって「1万種から巡り会った仲間」ではないか。
それを使いたい、彼らと共に戦いたい!と思うのは、何も間違ってなどいないし、大切なこと、必要なことだと断言する。

実際にこの「デッキパワー調整」については行われていると言っていいだろう。例えば、フリー対戦においては、手札誘発と環境デッキの使用禁止が、ほぼ暗黙の了解になっていることだ。

理由は簡単だ。強いから。使われる側がそれを使わなかった場合、そこに大きな差が生まれ、フリーとは名ばかりの場になってしまうだろう。

ということで、皆は誘発と環境デッキのいない世界に住んでいるのだが、やはり問題はある。とても大きな問題だ。

まず、環境デッキ外にもデッキパワーの差はある。9期以降のカードは実際それ以前とは別次元の強さを誇ると言っても過言ではない。

そして、様々なデッキが入り乱れる環境においてパワーを合わせるには、「高い側は低く」「低い側は高く」する必要がある。
すると、前者では「強いカードの使用自粛」や「好きなカードを諦める」ことが要求され、後者では「強くするために入れたカードに侵食され、デッキが本来の形を成さない」ということが起こり得る。


例示として、私の【捕食植物】は前者に値する。

「制限のオフリススコーピオに頼らなくても良いように」という名目で《クリッター》や《魔界発現世行きデスガイド》を初動とし、強力なリンク4モンスターを召喚したり、融合素材を供給する展開を採用している。
《クリッター》による初動は、目的や最終盤面こそ違えど、第一線で活躍するデッキでも採用されることがある。

《クリッター》を通常召喚→素材にして《転生炎獣アルミラージ》召喚→クリッターの効果で《神樹のパラディオン》を手札に…という展開。この展開であれば、この後《神樹》を自身の効果で特殊召喚(発動を介さないため可能)し、《水晶機巧-ハリファイバー》から更なるリンクにも繋げられる。手札1枚からリンク3、手札コストを払えるならさらに繋がるのだ。

そんな物を採用しているとなれば、デッキパワーは当然高くなると言えるだろう。

さて、この状態からデッキパワーを下げるとした場合の話だ。

そのために、強力だったクリッターやデスガイドを外すとすると、リンク4モンスターに繋がるルートが少なくなり、無理やりテーマ内で展開を行った場合、それは多大なリソースを割くものとなる。
一つの動きに多大なリソース=手札を割くことは継戦能力の低下を意味し、【捕食植物】本来の戦い方である「継続的に相手のエースモンスターをこちらのエースで除去しつつ攻める」が達成不可能となる。

ではどうなるか?
リンク4の採用を諦める他に手は無い。

しかし、私は《双穹の騎士アストラム》や《アクセスコード・トーカー》が好きだ。強力で豪快な効果で相手の盤面やエースを打ち崩すパワフルさが大好きだ。
このように皆さんにも好きなカードや戦術があるだろう。
中には「相手の行動を阻害するメタやパーミッションのカードが好き」という人もいることと考える。
だが、「楽しいデュエル」のために、強いからといって彼らを諦めるとすれば、自らの楽しみを減らした上でデュエルすることになる。大切な仲間と別れることとなる。


更にはテーマカードそのものが高いパワーを誇っていた場合、どれだけパワーを落としても純粋に強く、弱くするにはテーマカードを使わないこと…結果デッキ丸ごとの封印もありえる。環境デッキ不使用の原則と同じ原理だ。

この場合、【閃刀】や【ドラグマ】が、強さ関係なく世界観やカードデザイン、絵柄などで好みだ…という人はいたたまれない。

それがどんなに辛いことか、想像できるだろうか。

「好き」を諦めるということ

このことを相手の立場で考えれば、「相手は自分と対等にするために、大好きなモンスターやデッキの使用を諦めている」ことになる。

あなたはそれをされたとしてどう思うだろうか?

本当に、「お互いが楽しく感じるデュエルが出来ている」と思うだろうか?

自分であれば、それは許せない。
相手がではなく、自分がだ。

自分とそのデッキが相対的にパワーで劣っていたせいで、相手は自分の「好き」を諦めたということになる。
そしてその苦しみは、自分が与えたといっても過言ではないのだから。
お互いにそんなことを考える状態では、それは「真に楽しいデュエル」とは呼べるはずがない。


「お互いの《好き》を使うこと」「お互いの全力を引き出し合うこと」

この二つの理想はやはり相容れないのか。両立不可能なのか。
遊戯王そのもののインフレはデッキパワーの差を産んだ。9期以降の多くのデッキとそれ以前のものでは、大きな強化がない場合ほぼ別次元とも言えるほどだ。(電子光虫など例外もあるが)デッキパワーに差ができている。
いわゆる「ガチ対戦」であれば、お互い高いパワーのデッキを使って当然であるが、お互いの使うデッキ、つまりお互いの戦力が揃わないフリー対戦では、それらのデッキが入り乱れ、どうしても上記した問題が発生してしまうのだ。
一体どうすればいいのか…答えは未だ出ていない。

蛇足・筆者の考えは

だが、それでも理想を諦めたくはない。
強力なリンクモンスターでも、閃刀姫でも、お互いの大切な仲間たちを「みんなで楽しく」の場で召喚し合い、お互いの《好き》と《全力》を見せ合う戦いがしたいのだ。
それは決して簡単ではないし、ひょっとしたら不可能なのかもしれない。
それでも、「遊戯王を遊ぶプレイヤー」=「決闘者」である限りは、その道を模索していきたいと思う。

この経験と執筆を通じて、私は、自身の原点を、「大好きになったモンスターがいた」「それを使いたいと思った」ことを思い出す。

「きっと、私のやりたかったデュエルはそういうことなのだろう」と、1人納得した。
最強になることでも、レアカードを手にすることでもない、望む理想のデュエルを出来るように、道を考えていくことが、この私に課せられた決闘者としての使命なのだと悟った。


さて、あなたはどう考えるだろうか。
「お互いに楽しいデュエル」とは何か。競技ではなく、ゲームとして、対面遊戯として楽しい遊戯王を行うにはどうすればいいのか。


時間があればでいい、是非一度考えて頂いて、意見を聞きたいと思う。コメント欄でもいいしTwitter(https://twitter.com/milinmilin06)にでもいい。送っていただけると嬉しい。


今回は長くなった。3000字をも越している。
こんな駄文をここまで読んでくれたことに感謝しつつ、私はここで筆を置くこととする。

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