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【映画レビュー】『ミスト』――映画と原作小説の比較、そこに描かれる善性

こんにちは。
おいお前、スティーヴン・キングの映画しか観てなくない?と思われそうですが、一応いろいろ観てます。この前は『パシフィック・リム』観ましたよ。でも残念ながらNot For Meでした……。
それでなんかキング映画に戻ってきてしまったんです。

今回は前2作『ランゴリアーズ』『ザ・スタンド』に比べると知名度もそこそこある、パニック映画の金字塔のような作品です。

スティーヴン・キング
『ミスト』

今回初めて原作を読んでから映画を観たので、両者の違いなんかも記していけたらなと思います。
例によってネタバレありますのでご注意ください。


絶体絶命の時、「準拠行動」と「社会関係資本」がものを言う

まず、この作品の一番の見どころはやっぱり、霧の中に得体のしれない怪物が”いるかもしれない”時の、十人十色の現状認識だと思います。
タイトルの通り、ある日霧(ミスト)が街の外れからやってきて、やがて街全体を覆い尽くし、数メートル先も見えないほどの濃霧に視界を奪われた状態で、スーパーマーケットに閉じ込められる50人くらいの住民が主役です。

霧が危険らしいということは分かり始めるのですが、いかんせん視界が無くて何が起こっているのか分からず、住民のうち何人かは一刻も早く家族の待つ家に帰ろうとスーパーを出て、帰らぬ人になります。

面白いのは、住民それぞれが、これまでどんな人生を送り、どんな人間関係を築いてきたかによって、極限状態における思考・行動が変わることです。
もっというと、自分がどういう人物でありたいか、ということが行動を規定し始めるのです。こういうの社会学では準拠行動といったりします。

主人公は5歳の息子を連れてご近所さんと一緒にスーパーに買い物に来ていたところで、このご近所さんとは以前土地の関係で揉めて裁判沙汰になった仲。はじめは雪解けムードだったにも関わらず、状況が進展するとだんだん険悪になっていきます。
ご近所さんはニューヨークで弁護士をしていて社会的威信は高いものの、町では”よそ者”で、主人公家族の方がずっと社会に溶け込んでいます。
この関係性が次第に「自分は地元の人間に馬鹿にされている」と思わせるようになり、主人公が「霧の中は危険だ」といくら言っても聞かなくなります。

危険に晒されているのは明らかだけど、状況が把握できない。こういう時、起こりつつある出来事や周囲の様子を冷静に観察して、正解に近い答えを導き出して実行に移せる主人公みたいな人物と、
これまでの人柄の評価や町での自分の立ち位置、社会的立場などに思いっきり規定されて、冷静さを見失ってしまうご近所さんみたいな人物と、
両者を分かつのは一体何なんでしょうか?
もっといえば、大勢がスーパーに残るという選択をする中で、主人公たちだけが決死の覚悟で車に乗り込み脱出するという決断をできたのは何故なのでしょうか?

一つは、主人公が5歳の息子を抱えているということにあると思います。子供を守るために必死になる父親は、時として普段以上の能力を発揮して、状況を打開するために大きな決断をします。
同時に、「どんなときも良き父親でいなければ」「良心に従って行動しなければ」という意識が働き、(他の住民達のように)売り棚のビールを飲みまくって現実逃避したり、宗教にかぶれたりしません。
準拠行動への欲求がプラスに働いた事例といえるでしょう。

もう一つは、やっぱり人間関係の広さと深さ、社会学でいうと「社会関係資本」の過少にかかわっていると思います。
極限状態に置かれたとき、互いによく知っている間柄で信頼のおける人間がどれだけいるかが、その人の判断力に影響する、ということです。
普通、誰も知り合いのいないスーパーで幼い子供を抱えていたら、誰かに子供を預けたくても誰に頼ればいいか分からないし、気さくに声をかけてきた人が本当に信頼できるかをどうやって見分けたらいいでしょうか。そのことでまず頭がいっぱいになるでしょう。
また、誰かが何かを決断し、「皆も私についてきて」と言われたとき、その人となりを良く知っている人でないとなかなか腰を上げられないですよ。
主人公が「いつまでもスーパーにはいられないからなんとか車に乗り込もう、皆ついてきて」と行ったとき、ついてきたのは彼を良く知る学校の先生とか昔なじみの友人で、”よそ者”や季節労働者や赤の他人はいませんでした。社会関係資本が主人公の武器なのです。

一方、”よそ者”であるご近所さんの場合はというと、彼は「ニューヨークの弁護士である」立場を最大限活用して賛同者を集めていました。
彼が「霧の中には何もいない、スーパーから出よう」と言い出した時、たしかに賛同者の何人かが彼のあとをついていきましたが、もともと跳ねっ返りみたいな性格の人や、個がなく人を信じやすい人ばかりで、周囲がどんな声かけしても頑なに自説を曲げずに霧の中に消えていきました……。
彼は準拠行動(弁護士たらんとすること)に規定されすぎて、冷静に状況を判断できなかった。準拠行動への欲求がマイナスに働いたといえるでしょうし、社会関係資本が乏しかったことも敗北の一因だったでしょう。

なんかこれを見ていて、単身で身寄りのない地方に移住した私みたいな人間は怖いなあと思うのです。地元のスーパーで同じことが起こったら、明らかに私は死ぬかスーパーに取り残される側ですよ。
極度のストレスでおかしくなって、カルトおばさんの「神の審判の時」みたいな言葉に誘惑されて入信するかもしれないし。

ある人が、「世界に雄飛するより、地元で名士になりなさい」とか言ってましたが、これもひとつの真理だなあと思います。



小説によって喚起される想像力は映画を遥かに超える

映画を見ていてちょっとビックリしたのは、なんか化け物たちがどこかで見たことあるな~ってのばっかりで、サイズもちょっと小ぶりに感じたことです。
特に映画の終盤に差し掛かるシーン。車でハイウェイを走っていると、何か巨大な化け物がすぐそばを通りかかる……という場面では、見上げると本体はタコみたいな生物で、足が車のすぐそばに落ちてきます。
でも、小説ではあまりに巨大すぎて、見上げても本体が霧に隠れて見えず、足(みたいなもの)だけが轟音を立てて歩いている――みたいな描写だったはずです。

小説『ミスト』の怖さはやっぱり相手が”見えない”ことに起因していて、映像ではなく文字であること + 文字でも明確に描かれていないこと が、読者の想像力を限界までたくましくしてくれるのです。
だから自分でも気づかないうちに、『ミスト』の世界は私の頭の中ですでにイメージが出来上がってしまっていて、改めて映像化されると、ちょっと陳腐で物足りなく感じてしまうのです……。
ドラッグストアの巨大クモだって、もっとデカいと思ってたので、あの恐怖シーンにいまいち没入できないまま終わってしまいました。

あれだって結構な製作費をかけて作られた映像の筈です。調べたら製作費1800万ドルとのことですから、そんな高いわけじゃないけど決して安くもないでしょう。様々な音響効果で雰囲気を演出し、演技派の俳優を集め、CGを駆使して化け物をリアルに再現し……そこまでしてもやっぱり人間の想像力に人力で太刀打ちするのは難しいんですね。
逆にいうと、映画と小説の両方ある作品だったら小説の方を選んだ方がコスパいいんじゃないかと思ってしまいます。

ただし、冒頭のスーパー搬入口の触手シーン、あれは本当に素晴らしかった!
特に俳優たちの演技が生々しくて、犠牲になった若い男の子の断末魔と残された大人たちの強烈な罪悪感・気まずさがよく表現されていました。
こういう感激を一度でも味わうために、結局映画を観たくなるのも事実……。


これほど残酷な改変を一体誰が望んだのか?

最後に、どうしても許容できない部分があります。映画における、原作のストーリーを改変した部分についてです。
映画の終盤、命からがら車に乗り込み、霧の外に出ようとハイウェイを走っていた主人公たちでしたが、ついにガソリンが尽きてしまいます。
手元には4発の銃弾が入った拳銃があり、車の中には自分を合わせて5人、5歳の息子は眠っています。
一歩でも外に出ると怪物が襲い掛かってくる状況で、どうしようもなくなった主人公は、長い逡巡のあと幼い息子に銃口を向け……。

で、全てをやり終えて主人公は一人車を出、化け物が襲い掛かるのを待つのですが、霧の中から姿を現したのはなんと戦車でした。何台も連なる戦車の後ろからは、トラックに載せられ救助された住民たちの姿があり、やがて霧が晴れていくのです。
車の中には血塗れの息子の死体が……ほんの数分の行き違いで……。

いや、こんなん胸糞悪すぎるわ!この部分は小説と大きく違っていて、だからこそ映画の脚本を書いた人は何でこんな胸糞悪い改変をしたのか本気で良く分からないのです。サディストなの?

(調べたら『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』の脚本家でした……え、マジで?)

小説のラストでは、車で脱出した主人公たちは町はずれのモーテルに何とかたどり着きます。中には一応食糧があり、何日かは持ちこたえられそうです。
主人公はカウンターに置かれていたメモ用紙に、”霧”が街をおおってからの顛末を書き記す――その内容こそ、この小説なのでした。
で、これから一体どうすればいいのか、この霧はどこまで行けば晴れるのか、という半ば絶望的な独白で終わるのです。

つまり小説の世界では、霧の怪物に人類は打ち勝っていないし悪夢は終わっていないのです。映画で霧が晴れ渡り、戦車などの近代兵器が怪物を圧倒し、人類が災厄を克服するのとは対照的です。

何冊かキングの小説を読んでいて強く感じるのは、彼が結構行き過ぎた文明に批判的だということです。
行き過ぎた科学技術は常に倫理の問題を伴う――こういうアポリアに向き合い、それを茶化したり鉄槌を下すようなストーリーがちょくちょく見受けられます。『ミスト』もそういう話だったのではないでしょうか。
霧と怪物は、米軍の実験によって異世界に繋がる穴が開いて、そこから飛び出してきた……という設定で(小説ではそこまで明示的に書かれていませんが)、映画の結末でいけば、米軍が最後はきちんと尻拭いしたってことになり、なんだかあんまり皮肉が効いていないし、文明や人類の愚かさに焦点があてられていたのが突然ぼやけた感じがします。

もう一つモヤモヤするのは、主人公が息子を撃ち殺すことです。
父親が幼い息子と絶望的な環境を乗り越えていく、という設定で思い出すのはコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』です。
少し前に書いた記事で、キングの『小説作法』を紹介しましたが、あの巻末には創作する上で参考にするべき傑作小説がズラーッと列挙されていて、マッカーシーの作品もここに入っています。
キングが彼の作品に一目置いているのは明らかで、『ザ・ロード』も確実に読んでいることを考えると、映画の「父親が息子を撃ち殺す」という結末は、彼の作品にそぐわない気がするのです。

マッカーシーの『ザ・ロード』は、核戦争で文明が崩壊した後の荒廃した世界で、僅かに残された食料や水を頼りに、気候の温暖な南を目指して父と子がひたすら歩いていく、という物語です。
すでに町や村は略奪されつくしていて、父子は飢餓状態なのですが、道中には同じように飢餓状態の人間がやはり何人か残っていて、妊婦を殺して胎児を食べる、というようなおぞましい光景にもでくわします。
息子は「自分も食べられるんじゃないか」とか「父親が自分に人間を食べさせるんじゃないか」とか強烈な恐怖を感じます。
そのたびに父親は、決してそんなことはしないと息子に固く約束し、息子が骨と皮だけの身体になっていくのを苦し気に見守りつつも、決死の覚悟で食料を確保し、危険から息子を守り、先を急ぐのです。
このままいけばいずれ飢えで息子は死ぬかもしれないが、でも最後の最後まで希望を捨てない父親の矜持を見せつけるような作品です。

どんなに状況が救いようがなく露悪的であっても、決して善性を手放さない父と子の決意、人間を人間たらしめる最後の境界(=人肉食)を超えずに踏みとどまろうとするヒューマニティを描いたこの作品の深淵こそを、キングは愛したのだと私は勝手に思っています。
そう考えると、ますます映画の結末が「こうじゃない」と思えてくるんです。

若いころは人間愛や倫理なんてものを相対化するような、それらを茶化して逆張りするようなエグい作品を好んで嗜んだりもしましたが、年を取ると、最後まで善であり続けることにこそ本当の難しさがあり、途方もない覚悟があり、リアリティがあるなあと感じます。

キングはパルプフィクション作家でもありましたが、たとえ発表媒体が何であろうと、内容が大衆向けであろうと、キングの文章には芯が一本通っているような気がします。
私はそれこそ"善性"だと思うのですが、皆さんはどう考えますか?



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