【書籍紹介/海外文学】理性のない人々に取り囲まれたら
こんにちは、せっかく溶けたと思ったらまたすごい雪が積もってしまいました、東北の片田舎に住むM.K.です。
いきなりですが、私の好きな文学研究家・翻訳家に奈倉有里さんがいます。私がロシア文学沼にハマるきっかけをくださった一人なのですが、この方が翻訳されているベラルーシ人作家のサーシャ・フェリペンコがすごく良くて。
その人がよく描く人物像があるのですが、
それは社会主義の時代に、密告の恐怖に怯えながらも、読書や思想を手放さない勇気ある人。
周りの人々が考えることを辞めてしまって、文学の豊かな土壌を忘れてそれを蔑み、明らかに非合理な支配に盲目的に従う、そういう社会で一人生きる人です。
私もそんな人になりたいと思って、人生で出会った素晴らしい本たちは、なるべく買って自宅の本棚に詰めて、絶対に手放さないぞと誓ったりしてます(改めて書くと笑っちゃいますが)。
そういう人は決まって強烈な孤独感に苛まれます。「こんな社会絶対におかしい」と思っても、そう思っているのはどうやら自分だけだと気付いた時の絶望。自分が大切にしてきた知識・知性・品位みたいなものが、周りに全く理解されず、馬鹿げているもの・醜悪なものが持て囃されていく胸糞悪さ。
これと似たようなものを、田舎社会に感じる人も多いのではないでしょうか。どうしてそんなに他人のプライベートが気になるの?どうしてみんな休日になるとイオンモールに行くの?
日常の中に潜む違和感、絶対にこの人達とは分かり合えないという絶望感。
今回紹介するのはそんな孤独を描いた作品です。短編集ですが、不条理小説に近い作品が多く、その幾つかは「残虐さを面白がる人々」の無邪気な異常性を描いています。
『くじ』
シャーリィ・ジャクスン
深町眞理子 訳
この中の表題作『くじ』は有名な作品なので読んだことある方も多いと思いますが、今回取り上げたいのは、『背教者』の方。
以下、あらすじです。
鶏を殺した犬をどうやって殺すか、その事に興味津々の村人達。普段から子供達の面倒を見てもらったり、お菓子の差し入れをもらったり、顔馴染みだったりする村人達が、みな嬉々として犬の殺し方について一節講じようとすることの、無邪気な残酷さ。まだ幼い双子の子供達と全く同レベルの知性を思わせる大人達への恐怖が凄まじい短編です。
ここでは、なぜみんな犬を殺すことに執着するのか考えてみたいと思います。
まず、子供達と同レベルの知性しか有しない大人、というのは一応西洋近代主義的な「理性主義」へのアンチテーゼと捉えることができます。
「反知性主義」とも言いますが、すなわち理性がそれほど大事なことか?理性よりも経験、ノウハウ、自然体でいることの方がずっと大事ではないか?というアポリアです。
たしかに、ここに登場する村人達は経験的に毎日を生き、自分を繕わずありのままに過ごしているように見えます。
理性主義が、あるいは理性至上主義から生まれたドイツ観念論がナチスを生み出した、という人もいますが、じゃあ理性はほんの取るに足らないものなのか?
本作の舞台はのんびりした田舎で、ご近所付き合いも密で、作中でもお隣さんに手作りドーナツを貰ったりします。心休まる穏やかな生活ですが、一方で彼らは変化に乏しい毎日に反旗を翻そうとしています。
噂話を交換し合ったり、ご近所に手料理を振る舞うというのは、変わり映えしない毎日へのささやかな抵抗です。
噂話によって想像上の他者を吊し上げて非難したり、非難することで共同体の結束を確認したり、手料理を振る舞うことで自らの優位性を誇示したりする、そうやって自分を癒しているのです。
犬を殺さなければならない、というのは彼らにとっては非常に大きな事件です。
しかも、動物の習性については、自然との距離が近い田舎の人間の方が、都会の人間より良く知っている(と思い込んでいる)。自然の残酷さ、自然の本当の姿を都会の人間に教えてやれる絶好の機会です。
また、処刑というのは昔から市井の「娯楽」でした。変わり映えしない毎日に、突然「死」という非日常が登場し、究極的な終わり(=死)を前に受刑者は何をするのか、その肉体が断ち切られる時何が起こるのかを、絶対的に安全な場所から眺めていられるのです。
前者の「自分たちの優越性を確認する行為」と、後者の「日常の中に演出される非日常的娯楽としての処刑への期待」が入り混じって、犬殺しにただならぬ興味関心を引き立てているのではないか、それらについて話すことが自分をものすごく癒し、気持ち良くさせてくれるのだと思っているのではないか。無意識のうちに。
……ということを、理性は明らかにしてくれます。しばしば感情に支配される人間が、それを客観視し、相対化し、抵抗する為の手段こそ、理性だと私は思います。
考えすぎかもしれないけど、このままいくと、鶏を殺した犬は村人の誰かに捕えられ、村人達の総意で嬲り殺されてしまうんじゃないかという気がします。非常に悲惨なやり方で、しかも心のどこかでそれを楽しみながら。
こういうメンタリティを、監視社会と化した東欧世界の文学に出てくる一般市民にも感じるのは、ものすごく考えさせられます。そこにも、「反革命である相手に対して、忠実に革命を守ろうとする自分たちの優越性を確認する」マインド、そして「娯楽としての処刑を期待する」マインドがあるように思えます。
癒しや快感を盲目的に求め、その代償や良心の呵責など一顧だにしない、というような。
こういう人たちの共同体に一人放り込まれたら、自分を保てますかね?でも、同じような境遇を生きている人がこの世界にはたくさんいるように思えます。
そういう孤独な闘士が理性のない人々に心を折られることなく、首輪が巻き付くような息苦しさを誰かと共有できたらいいのですが。
本作ではウォルポール夫人が心の内を開かせる相手はついぞ現れませんでしたが、SNSが発達した今ならきっと、彼女の気持ちをわかって、彼女を応援してくれるオーディエンスがいるでしょう。
良い世の中になったのかもしれません。
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