見出し画像

田中城下屋敷 1

日曜日、田中城下屋敷に行きました。

田中城は、静岡県藤枝市(駿河国西部)にあったお城です。
この地は東海道の要所であり、戦国大名にとっては戦略上重要な拠点であったため、今川、武田、豊臣、徳川と、次々にその時代の権力者が、その地を取り合ってきた、実に興味深いお城です。
まさに今、大河ドラマ「どうする家康」の時代。
もしかしたら、名前くらいチラッと出てくる可能性がある(?)お城です。

田中城は、1300年代(室町時代)には存在していたという伝承が残っていますが、歴史として残っているのは、今から500年ほど前、この地の豪族一色氏が今川氏の命を受けて、屋敷を広くして城とした、というところからです。当時は今川領で、徳一色城とくのいっしきじょうというお城でした。

その後、武田信玄が駿河攻めをして、この城を攻め落とし、田中城と名前を改め、この城に2か月滞在しました。 

徳川家康は、7年間にわたって武田勢が守る、この田中城を攻め続け、1582年(天正10年)ようやく田中城を落とすことができました。
かなりの激戦地だったようで、夜はちょっと怖い気がします。

織田信長が、武田氏を滅亡させて、安土城に戻るとき、
豊臣秀吉が、小田原攻めの途中に、田中城に泊まっていますし、
隠居後の家康は、鷹狩りの際に何度もこの城に宿泊し、駿府城修築の間も、
この田中城に滞在していたそうです。

また、元和2年(1616年)正月21日、駿府城で朝食に鯛の天ぷらを食べてから、藤枝に鷹狩りに来た家康。その夜田中城で就寝中突然の腹痛が襲い、これがきっかけで病に臥し、4月に駿府城で亡くなりました。

こ、ここで、家康公が病に倒れたなんて、知らなかった。


田中城は、現在西益津にしましず小学校になっていて、その近くに三日月堀跡が残っているぐらいのようです。

今回行った田中城下屋敷は、田中城の南東隅にあり、江戸時代は.領主の別荘として、築山、泉水、茶屋を設けて、四季の景色を楽しんだようです。

現在、その庭園を復元し、田中城ゆかりの当時の建物が移築復元されています。

さて、説明が長くなりました。
ではさっそく、入ってみたいと思います。

まずは、駐車場入り口の看板です。

そしてこれが駐車場からの入口です。

土塁の跡も残っています。

家康公お手植えの蜜柑?と、ちょっと興奮して近づいてみると、

・・・の木から剪定した枝を接木したものです、とのこと。
なあんだ。
その蜜柑の木は、家康が駿府城に隠居された折り、紀州より献上された蜜柑を、駿府城本丸「紅葉山庭園」に家康自ら移植したらしい。

今も駿府城にあるのかな?
ググったら、あった。
今度駿府城もゆっくり行ってみたいな。

さて、庭園内には、旧六間川ろっけんがわがながれ、泉水(池)になり、その奥に築山があったらしい。

奥にあるのが築山跡。残念ながら平らに慣らされてしまったので、跡しか残っていない。

手前が、泉水、つまり池です。カキツバタを植栽中ということでしたので、カキツバタの花がたくさん咲いたら、又違った雰囲気になりそうです。

六間川の流れは川と大溝に分かれて中之島を作っている。中の島は半分が土塁になっていて、今は梅の木がたくさん植えてあった。

しまった!!もう少し早く・・・梅の季節に来ればよかった。

この季節、花らしい花がない。
一つだけ咲いていた花

これは何の花かしら?

庭園内の六間川は、今は流れが変わってしまっているので、川の跡だけ残っています。

この、石が敷き詰めてあるところです
ただの遊歩道だと思ってた。

庭園の中央の大きな松、これはきっと当時からの物なんだろうな。

中の島の一番高いところに、亀石があった。

本当に亀みたい!
江戸時代下屋敷にあったが、所在が分からなくなっていたもので、昭和42年の六間川水路改修工事の際に見つかったそうです。
もう一個どこかにあったみたいだけど、見つけられなかった。

そんなに広くない庭園なのに、情報量が多すぎて、とても一回の記事では書ききれませんでした。
園内に移築されている建物や、田中城の形態については、また次回の記事にいたします。

田中城、知れば知るほど面白いお城です。

この記事の続きはこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?