マジカフロスト・カインド・ガイド

 雪原に人血を蒔く。
 大友ピンクはこの瞬間が好きだ。今だけは一人の芸術家として、技巧の追求から離れて重力が生む偶然を求め、人目のない雪山で倒錯的創作に没頭していられる。"そう"いられる。何事にも代えがたい崇高な一瞬だった。
 実際は何もかも違う。
 夜中だ。裂いた輸血袋から飛散した800mlの軌跡はほとんど目に見えなかった。ぺしゃっ と腑抜けな音を立てた血痕は、月光照り返す雪の上でさえ、鮮血どころか黒い影にしかならなかった。泥水でも同じだ。
 瞬間は終わった。
 白く寸胴な防寒着で雪を蹴り、ピンクは踵を返した。大きく五歩数えて振り返る。
 血痕の上には湯気が立ち、全裸の男が直立していた。体は締まっているが弛んだ頬と目尻がみっともない、老けた男だった。
 魔法の手順に加担するのは、魔法を使ったことになるのかね。ピンクは手袋を外してボウガンを構え、男の下腹に向けた。
 男はピンクを見て驚き、雪原を見回して驚き、両手で股間を隠し大きく息を吸った。肘窩から流れ出ていた血が凍るように止まった。
「聖域だ。本当にありがとう」
 男が白い息を上げた。嗄れた声と子どものように明るい表情が男の不均衡な印象を強めた。
「けど越境役が君のような子どもとは。小学生かい? 親御さんは――」
「この期に及んで間抜けですか。店は教わってますよね。早く戻してください」あと中学生だ。ピンクは離れて置いたボストンバックを矢の先で指した。「服はそこに」
 男は見向きもしなかった。
「渡したい物があるんだ」
「チップは結構です。援助もやってません」
「お金じゃなくて」
「なおさらお断りです」
 男が首を振って笑った。ピンクのコートが少し重くなる。ポケットの一つが膨らんでいた。
「袋の中身だけを移したから、僕で汚れてはいないと思う。指示役に渡してくれればいい。もう一人、頼むよ」
 大家なんて顔も知らねえよ。ピンクの抗議は音にならず、その姿は靄のように消えた。
 雪原に男だけが残った。 【続く】

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