照らしてくれるな

『午後八時・闇野球』のプラクティス
(2569字)

 そろそろだ。俺か、俺以外の誰かが呟いた。
 8人の声を聞き分けられなかったのは、それが本当に小さな、舌が偶然そう鳴ったかのような音だったから。自分かも知れないと思ったのは、全く同じことを考えていたから。時計は見えないが勘で分かる。街から灯が消えていく。
 いずれにしろ俺たちの他には有り得ない。互いの顔も見えず外のざわめきも遮断した、真っ暗闇のロッカールームには俺たちしか居ない。ひなたの連中が出てから9人揃って入り、内側からドアの鍵を閉めていた。隔離された闇。球場の熱気も、世間の冷気も、ここには入ってこない。
 それから一時間。暗中の呟きを追うようにドアが鳴った。ノックは当然外から。闇に浮かぶ輪郭が一つ立ち上がり、鍵を開けた。顔も見えないまま#33だと当たりを付ける。大卒3年目、小柄な二塁手。この部屋一番の年下で、ドアからも一番近くに座っていた男。俺の席は対角だが年功序列以外の意味は無い。どうせ何も見えない。
 ドアが開いても同じだ。明るさはほとんど変わらない。廊下の照明も消えている。それでも外に10人目の誰かがいることは確かだった。
 #33が立ったまま短く小さなやり取りを交わし、こちらに歩み寄ってきた。足音は立てず、長机を蹴ることもない。
「19時半です。7表」そして白目が見えるほど顔を寄せて囁いた。
「ありがとう。アップに行こう」
 礼は大切だ。表情が見えなければなおさら。
 俺と#33は左右に別れて部屋を回り、他の連中の肩を叩きながらドアに向かった。ほとんどは状況を理解していたが、中には目を閉じている奴もいた。#00、高卒9年目、右翼手。日陰に出るのは今日が初めて。「ライト」呼びかけるとただ顔を上げ、しかし立ち上がらずに口を開いた。
「思うんですが、全部嘘なんじゃないですか。本当はもうとっくに試合は終わっていて、ただ映像を流して俺たちを笑いものに、いやもしかしたら中継すらしてなくて、誰も見てなくて、本当に全部作り話なんじゃないんですか。だってこんな、バカバカしい」
 #00は一気に捲し立て、唐突に黙った。良くない兆候だ。しかしこうなった選手を見るのは初めてじゃない。俺の舌は滑らかに回った。
「だったらなんだ。試合が嘘だったら手を抜くのか。目の前に来るボールを打つことも取ることもしないのか。そんなことができるのか」
 #00は自分のこめかみを潰すように揉み、グラブとバットケースを手に取った。正面から向き合えば#00の方が背が高い。男前のはずの顔を見上げてやる。
「まずやることはシンプルだ。目を凝らせ、耳を立てろ」
「目を凝らす。耳を立てる」
「そうだ。そうしろ」
 真っ暗な廊下を伝い、真っ暗なブルペンへ向かう。本来は投手のための設備だが、野手の控え室──部屋とも呼べない踊り場のような空間──に9人は収まらない。だからここで全員が体を動かし、そのままグラウンドへ出る。
 ひなたの控え投手はすでに引き上げている。奴らの目を夜に慣れさせても害にしかならない。俺たちは暗所から暗所に、そして暗所へ。
 ストレッチ、オモチャのような蓄光塗布球でのキャッチボール、マニキュアを塗った爪でサインプレーの確認、防具を着け、社会人卒4年目の投手#58と投球の打ち合わせ。お互い話すことは少ない。俺も直球以外はほぼ捕れないし、何にしろまずバットには当たらない。万が一当たってしまえば、ボテボテのゴロでもアウトには出来ない。打者は勇気さえあれば走れるが、守る側の反応はどうにもならない。無傷で終わることを祈るしかない。
 壁掛けの古式ゆかしい直通電話が鳴った。音量は最小、煙草の灰が落ちるような慎ましやかさ。それでも9人全員が顔を向けた。電話へ、そして俺のいる方へ。
 受話器を取る。通じる先はベンチしかない。聞こえてきた声は一軍監督、#80のものだった。
「時間や。悪いなツル」
「試合中でしょう。直々に、律儀なことで」
「他にやることもない。2点ビハインド、9回表2死までは来たけどなあ」
「向こうを一人殺して、こっちの三人を帰す。良いですね、サヨナラは客も喜ぶ」
「すまんな」#80はそれ以上何も言わなかった。
 背後でシャッターのような大扉が開く。その向こうはライト側のグラウンド。グラブを持って外へ、9人それぞれの守備位置へと走る。
 照明はない。禁止されている。観客はいない。禁止されている。月明かりだけのグラウンドに、蓄光塗料で象られたベースとラインが、漁り火のように浮かんでいる。ぼんやりと光るユニフォームを纏い、俺たちもその一つになる。
 #80、監督。あんた何も分かっちゃいない。でなきゃ二度も謝るはずがない。俺たちは確かに無様だろう。暗闇の中、淡い蓄光だけを頼りにボールを追う大人の姿は馬鹿げていて、笑えるだろう。それを強いることがつらいと思うのなら、あんたは良い人間だ。ただ分かっちゃいないんだ。
 野球に神様がいるのなら、闇はもう一人の神だ。闇だけが、俺たちを舞台に連れ出した。俺たちを生かした。俺は闇を、今日この日を愛している。
「○○県、警戒警報。○○県、警戒警報。こちらは、感染対策本部です。午後八時になりました。感染拡大に伴い、現在、○○県には緊急事態宣言が発令されています。不要不急の外出は控え、屋外電光は、消灯して下さい──」
「○○、選手の交代を、お知らせします──」
 スタジアムの外と内からアナウンスが響く。ホームベースの後ろに辿り着き、審判に頭を下げた。暗視装置とバッテリーを身に付けたその体は、昼間の倍は分厚い。
「お願いします」
「はい、お願いします」
 投球練習をしている間に相手側の代打もコールされた。#99。打てるはずのない暗闇で打率を2割に乗せる適合者。100kg近い分際で昨日はランニングホームランを打ち、勝ち星まで奪い取った。俺たちは8割の賭けを引かなければいけない。
 #99は顔にまで塗料を付けていた。ヘルメットと頬の色に挟まれた目は感情どころか動きすら見えない。不気味だった。実物は知らないが、幽鬼とはこんな姿をしているのだろう。
「やあ、大将。今日は一段と暗いな。さっさと終わろう」
「ああ」
 #99の甲高い声に価値は無い。幽鬼の囁きが擬態であるように、ただ人の言葉に聞こえるだけだ。脳から遮断する。今はただ8割の確率を考える。
「プレイ」
 審判が咎めるように言った。 【終】

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