剣闘小説論:その発生

前提0、ほぼWikipedia情報と妄言です。何も信じるな。俺も信じるな。

前提1、剣闘小説とは何か
それは小説であり、エッセイだ。akuzumeが書いている。

一連の作品群は、アイカツ!、アーケードゲーム、古代ローマを生きる剣闘士の姿、そしてakuzumeという一人の男を描く。受け入れろ。お前が「アイドル 剣闘」で検索したとき目にするのはakuzumeの記事だ。ジャンルはすでに確立されている。

前提2、俺の知識
俺はアイカツ!を知らない。作品が存在することは知っているがアニメは見ていないし、ゲームを遊んだこともない。いくつかの楽曲を聞いたことはあるが、それだけだ。akuzume氏との面識もない。あと剣闘士や古代ローマのこともよく知らない。俺には何も語る資格がない。お前はどうだ? さすがに失礼だと思うのでアニメは見てみます。
それはそれとして、俺は俺が読んだ剣闘小説と、俺が知っているアイドルアニメの話をする。そういう記事だ。

前提3、奴隷制度とアイドルを重ねる意図は一切ない
剣闘小説は現実のアイドル存在を奴隷制度と重ねる揶揄的な作品ではない。あくまでフィクションのアイドルを基軸にする物語だからこそ、奴隷身分から完全に解放されることのなかった剣闘士と重ねることができる。作品は一貫してその一線を守っており、俺はその姿勢を完全に支持する。

アイドルは剣闘士なのか?

はじめから考えてみたい。つまり、そもそもakuzumeは何に剣闘士を見出したのか。この点を知ることは容易だ。最初の剣闘小説から抜粋しよう。

あらすじ:勤務先のトイレでパンプアップを終えたakuzumeは、客の少ないデパートのゲームコーナーに向かう。目指す筐体は一つ。アイカツ! akuzumeはその日、初めてのアイカツに臨む。

"俺が持っているカードはこの一枚しかない。
それはつまり、朱里はTシャツ、水色スカート、スニーカー姿というアイドルとしてみずぼらし極まりない格好で舞台に上がることになる。
俺の脳裏に腰に布一枚しか纏っておらずの新人グラディエーターが錆びつきの短剣とバッグラーを渡され、いきなり兜と胸当てで装備を固めたチャンピオンを戦わせる画面が浮かんだ。DEAD IN ROME……むごい、これはもはや試合ではない、殺戮ショーだ。ESCボタンがあれば今すぐ押してデスクトップに戻りたい。でもご存知の通り、アイカツの台にはボタンが三つしかない。決死の覚悟でチャンピオンに挑むか、腰抜けみたいに剣とバックラー捨てて、ブーイングと下に向けた親指の屈辱を耐えながら時間切れという処刑が来るまで待つか。
当然、俺に腰抜けに甘んじるという選択肢が存在しない。"

アイドルが装飾的な装備を身に着けて、戦う。akuzumeはこのゲームシステムに古代ローマの剣闘士を幻視した。その描写に直感的な抵抗はない。努力を重ねた人がステージに立ち、着飾った肉体が躍動し、その一挙手一投足に観客が歓喜する。その情景は確かに2000年以上離れた古代ローマはコロッセオの景色と重なる。
だがそれだけですべての説明が付くとは思えない。剣闘士とアイドルの接続というアイデアには、単純なイメージを超えた収まりの良さ、説得力がある。なぜだろう。

剣闘士はなぜローマで栄えたか

というか剣闘士ってなんだ? 俺はWikipediaを読み、ラッセル・クロウの悲しげな顔を思い出し、以下の情報を得た。ちゃんとしたことは自分で調べよう。

・剣闘士は古代ローマにおいて見世物として戦った戦士である。
・起源は不明だが古くは紀元前264年から記録に現れる。キリスト教の浸透とともに徐々に人気を失い、681年に公式に禁止された。かのスパルタクスの第三次奴隷戦争は紀元前73年から前71年。
・剣闘士の多くは戦争捕虜や主人から売り払われた奴隷であり、その供給は共和制ローマ及び帝政ローマの領土拡大戦争に依存していた。
・剣闘士は勝ち続けることで富や名声を集め、自由を得る事も出来たが、解放されても身分は「ローマ市民」ではなく「降伏外人類」にとどまり、市民法の保護は受けなかった。(「ローマ法概説」)
・共和制、帝政いずれの時期も市民の政治影響力が強かったローマにおいて、支配層からすれば世論の支持は生死(政治生命にとどまらない)に直結したため、多くの闘技会は富裕層による人気獲得の施策として開催された。
・"共和政末期の政治家で哲学者のキケロは剣闘士試合を「残酷で非人道的だが、苦痛や死に視覚的に慣れさせる訓練として、これ以上効果的なものはない」と評した。帝政初期の政治家セネカは、人殺しのみが繰り返される闘技会とそれに熱狂する観客の様子を語り、この様な闘技会を観戦することは「人をいっそう非人間的にさせる」と述べ、キケロと違い、その効用に言及しなかった。
18世紀の啓蒙主義思想家モンテスキューは剣闘士試合によって「ローマ人に残虐性をおびさせた」と評するとともに「流血と負傷を見慣れる」ことによってローマ軍団の強さが維持されたとキケロと同様の解釈をし、ルソーは「共和政期においてはローマ人の勇気と徳を刺激したが、帝政期には流血と残虐とを好ませるだけになってしまった」と分析している。"(剣闘士 - Wikipedia)
・精強を誇ったローマ軍団は戦争が長期化するにつれて貧窮化したが、農地を持つローマ市民に課された徴兵制から、無産階級が多数を占める志願制へと移行することで勢力を盛り返した。(紀元前1世紀ガイウス・マリウスによる軍制改革)
・"ローマの敵は、カルタゴ・パルティアなどの大国を除けば、ほとんどが規律や統制に欠ける武装集団(蛮族)だった。ローマ軍の整然と組まれた陣形とよく統率された攻撃は、彼らをたちどころに粉砕した。また、ローマ軍は市民により構成されていたため、傭兵中心の他国の軍にくらべて、士気の面でも有利であった。
この時代の戦闘では、敵味方入り乱れての乱戦はめったに起こらなかった。どちらかが相手に突撃し短時間の白兵戦が展開された後、距離を取って散兵戦を行うか、その場で踏みとどまりできるだけ敵を追い散らすことが目指されたからである。士気が崩れて敗走した方が負けであり、勝者側の死傷者は極端に少なく敗者は極端に多かった。"(ローマ軍団 - Wikipedia)

ローマ市民は剣闘を渇望した。その開催者であることを理由に指導者として支持するほどに。なぜか。兵士として戦場に立つ彼らにとって剣闘は人生の一側面であると同時に、おおむね優位であり、十分に生き延びうる体験として記憶されていたからではないかと俺は思う。その感覚は痛みを伴う闘争を生活から遠ざけることに成功した現代人が、リングの外から見る格闘技や、銀幕を眺めるアクション映画などとは全く違っていたはずだ。軍事技術・情報システムの発展により実戦における優位性の偏りを失った現代の兵士とも違う。となると軍制改革の以前以後で剣闘士に向けられる視線は変わったのではないかと思えるが、根拠はなく、本稿の趣旨でもない。

ローマ市民は剣闘士を、生活の延長線上に存在する勇士として称えながら非市民であると見下し、一方で自らも兵士として戦った。生き延びるための集団戦術を身に着けた市民から、個人の武勇を磨き上げた剣闘士はどう見えただろう。顕現した英雄譚の痛快さ、愚直で懸命な努力の結晶、かくありたくもあり、かくありたくもなし。嘲笑と表裏一体の憧憬。

俺は気付いた

アイドルだ、これは。

Aqours、そして最後にして最初のアイドル

俺はアイドルのことも知らない。現実のレイヤーだけで成立するという意味での純粋なアイドルを追った経験はない。オタクぶっておきながらアニメもろくに見ないので、いわゆるアイドルアニメもほとんど知らない。
俺が持ち合わせているアイドル知識は、声優アイドルグループAqoursと、SF小説『最後にして最初のアイドル』(草野原々)だけだ。形態の全く違うこの二つのコンテンツは実のところ、同じ『ラブライブ!』という作品から生まれたという意味で姉妹とも言える。言えるのか?

もちろんアイドルは人を殺さない。剣闘士ではないからだ。少なくともAqoursの方は、そうだ。だがアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』においてAqoursは他のアイドルグループとパフォーマンスの優劣を競い、敗北と勝利を幾度となく積み重ねる。声優アイドルグループとしてのAqoursは何万人という観客の前で実際に歌い、踊る。鍛え上げた肉体と歌声を躍動させる。

『最後にして最初のアイドル』の方は、人を殺す。ネタバレは避けるが、アイドルによって人がたくさん死ぬ話だ。だが本稿における要点はそこではない。そのラスト一行……ここでは書かないが、読んだ人間なら意味が分かるはずだ。面白いから読もう。

Aqoursもまた劇中そして実際のライブにおいて「輝きたい」と言い、「一緒に輝こう」と観客に呼びかける。俺はライブ映像を見たし、実際のライブにも行った。あの人たちに輝いてほしいし、俺も輝きたいと本気で思った。アイドルにはそう思わせる力がある。ローマ市民にとって剣闘士がそうであったように。

アイドルは剣闘士だ

ローマ市民は剣闘士にならない(例外はある。市民どころか皇帝が闘技会に入った例もある)。だが剣闘士の努力はローマ市民の生活に重なり、だからこそ熱狂を産んだ。

アイドルファンはアイドルにならない(例外はある。Aqoursキャストの多くは前身たるμ’sのファンであったことを公言している)。だがアイドルの努力はファンの生活に重なり、だからこそ熱狂を産んでいる。

akuzumeの延長線上にあるアイカツ!、ローマ市民の延長線上にいた剣闘士、俺の延長線上にいるアイドル。今やその重なりに疑いはない。akuzumeの視線は正しい。アイドルは剣闘士。それは表面的なこじつけではない。人と人が向き合ったときに現れる本質を射貫いた言葉だ。お前もお前の輝きを見つけろ。そして輝け。剣闘小説は俺に、そしてお前にそう叫んでいる。


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