道端で突然映画青年に話しかけられた時の話~映画「眩暈 VERTIGO」をめぐって

 先日、STRANGERという去年だったかにできた新しい映画館で、井上春生監督のドキュメンタリー映画「眩暈 VERTIGO」をみた。2019年に亡くなったジョナス・メカスを悼み、詩人の吉増剛造がニューヨークへ行き、メカスの旧仕事場などを訪ね歩き、メカスについて(かなり多弁に)語る、というのが主な内容。非常に高精細な画質で編集にもこだわり最新技術を駆使した凝った映画だった。下手するとテレビ番組のような作りに見えたりもするが、ぎりぎりのところで映画館で上映すべき「映画」であることを保っている、という印象を受けた。そういう点はあるにせよ率直に言えば最新の表現・編集の手法を駆使した新しいドキュメンタリーとしての方法がたしかにある面白い作品だった。

 上映が終わって、その日は同時上映のヴィム・ヴェンダースの初期短編も見る予定だったため待ち時間道端でタバコを吸っていると、若い映画青年に話しかけられた。というのも、その日の上映はプロジェクターの不具合があって、画面につねに緑色の小さなドットが1か所映ってしまっているという、気になる人には気になって気が散ってしまうような状態で、僕もなんとなく気になってはいたが映画に集中してればそれほどでもないなという感じだった。でも、その彼はそれが許せなかったみたいで、映画を見ていたと思しき僕に話しかけてきたというわけだ。「あの緑の点、気が散りませんでした?」って。

 僕はそうでもなかったので、「まあ、気にはなるけどそれほどでもなかったですよ、映画に集中してればそんなに。」と答えた。まあそのことはその道端で始まった映画談義の端緒みたいなもので、この文章の本題ではない。そのことがきっかけで、話はプロジェクターの不具合から「眩暈」という映画そのものについてのことに自然と移っていった。

 彼によれば、「眩暈」は、メカスが映っているパート以外はちっとも面白くなくて、編集方法はやたら作為的に感じ、ドキュメンタリーとしては説明的にすぎるショットも多くて、正直見てムカついたのだと。僕は逆にその点こそが面白いと感じたので、その意見の対照が際立ったことはちょっと意外だったが、ああ、なるほどそういう感じ方もあるのかと聞いていて興味深かった。その彼がメカスファンであるということも手伝ってか、メカスに対して失礼じゃないかと感じた、というのもなるほど理解できる。べつにその彼を批判するわけではないが、メカスというアーティストに思い入れが強く、吉増剛造にはさほど興味がないのだとすれば、そのような受け止め方になるのもゆえなきことではないなと思った。

 僕は逆にさほどメカスのファンというわけでもなかったので、そういうことは気にならず、というかむしろ吉増剛造の方にこそ思い入れがあるので、吉増剛造主演の映画として楽しむことができた。なによりも動く吉増剛造、やたらと喋る吉増剛造の姿というのを映像でこれだけたっぷり見るのは初めてだったから、吉増剛造という謎めいていた詩人の素を見ることができたのは大変に興味をそそる体験だった、といってよい。

 というよりもこれは、メカスっぽさを期待しては当然当てが外れる映画で、中心にあるのがどういうことかといえば、メカスの死に際して改めて吉増剛造がメカスについて解釈をするところを撮ったものだ。そしてそのカメラが回って撮影された詩人の姿ももちろん監督によって取捨選択され編集されるから、それゆえ、「メカスを解釈する吉増剛造を(監督が)解釈する映画」ということになるのではないか。つまり、監督によって解釈されたいち詩人のクリエイティビティ、が主題だといってよいだろう。メカスはいわばそこではそれを浮かび上がらせる「きっかけ」に過ぎず、後景に退いてはいる。メカスに触発されての吉増剛造のクリエイションとは何か、が追求されるというわけだ。

 映画学生の彼との話の中で、僕はこれはドキュメンタリーとしては相当テクニカルなものとして捉えられるだろう、ということを言った。そしてその捉えられかたが、さほど好意的でない傾向があるだろうと。というのも、最近ではメイズルス兄弟の「セールスマン」や「グレイ・ガーデンズ」が再評価されるなどドキュメンタリーを見る文脈においてダイレクトシネマのハードコアな部分が注目されているし、特にシネフィルにはそういうもの(ほかにワイズマン、ロバート・クレイマー、想田和弘、ワン・ビンなどなど)こそが「真の」ドキュメンタリーの姿だと思われがちな傾向はあるかもしれないからだ。あるいは、ルーシァン・キャスティーヌ=テイラー&ヴェレナ・パラヴェル 「リヴァイアサン」以降、いわゆる「映像人類学」的なアプローチもまた、ドキュメンタリーにとってのひとつのハードコアとして認識されているきらいがある。だから、ある対象を記録するというドキュメンタリーの手法において、なにが(いまの日本で)正統的かつ先鋭的なものとされているのか、をひとりの映画学生の意見から、僕はなんとなく感じることができたというわけだ。

 しかしながら、それらの手法だけが映画的に価値あるものであるというようなことは暴論にすぎない。対象に肉薄し、なんらかの本質めいたことを浮き彫りにする手法は、当然、それだけではないからだ。この4年間、大学院で社会福祉の現場調査についていろいろ考え、論文をまとめたわけだが、文章だけで「対象を解釈する」ことにしたって多種多様な方法があることを学んだ。だとすれば、映画という表現手段においても、「対象の解釈」には多様な方法があってしかるべきだし、むしろ「素朴な写実」にも近いダイレクトシネマ的な方法だけでは取りこぼしてしまうものがあることも確かだろう。とくにこの映画のように、「詩の生まれてくる瞬間」のようなものに近づこうとするならば、それは必然的にアーティストの内面性にもかかわってくることなのだから、唯物論的な写実性だけでは追いつかない、というのが僕が感じたところだ。この映画が特徴的なのは、英語と日本語の2言語の並列性、詩が「声」として発せられるときの「聞こえ」や「響き」、といった部分にもフォーカスしているところだ。吉増剛造が日本語でも英語でも喋り、それはメカスがニューヨークにいたからということも大きいのだが、その2言語の往還によるニュアンスの差異や、翻訳そのものとは何かという問題系にも食い込む演出がなされている。メカスの英語に日本語話者の吉増剛造はどう反応したのか、そしてどう「翻訳」したのか等々、日本語と英語のふたつの言語にまたがって体感することで(この映画では英語字幕は基本的についていて、映画内でのナレーションも2言語で丁寧に反復される)、文化的な差異にも思いをはせることができる。
 
 加えて、詩人のことばを「声」として聴覚で感じることができることも大きい。映画では、吉増自身による朗読のみならず、凝った音響効果によってさまざまな人によって(ナレーションのような形で)詩が読まれる。その「聞こえ」や「響き」をひとつの「音響操作」として、あるいはまたデザイン性にみちた字幕によって提示することは、ひとつの感覚器官にその受容を限定しない映画にしかできないことでもある。そしてクライマックス(があるとしての話だが)としてはやはり吉増自身による朗読シーンだ。ここでは声、そして詩人が声を発する身振り、詩人が詩を文字として紙に書き留めるときの触覚的でもある<筆跡の視覚化>といったものが、映画メディアがもつ技術的なポテンシャリティを総動員して提示される。ここにこそドキュメンタリー映画がもつ、「現代の先端テクノロジーと手を結んだ」可能性がある。ここにこそ、例えば僕が論文という「文字だけ」で「対象を解釈」してみたこととはちがう、映画メディアによる特殊性というか独自性がある。

 もちろんこれは、テクノロジー礼賛にすぎる楽観的でナイーブな見方かもしれない。事実、その彼は「叙情的に過ぎる」とも言っていた。そのように、見る人によっては「対象の解釈」というところにすら行けていない映像遊びとして受け取られることもあるだろう。いわばそれは、ダイレクトシネマに慣れた目利きな観客が、「批評性」の領域をどこに感じているのかという問題であるのかもしれず、また叙情と批評性は両立不可能として捉えられているということなのかもしれない。ダイレクトシネマが提示するものは、映像そのものであるから、それをまさに「見ること」こそが批評性を観客自身のうちにもたらすということであって、映像の間隙に観客が批評性をもって入り込むことができる、という現象なのだ。だから、「叙情的」ともみなされるこのようなテクノロジーにある意味で「頼った」表現は、批評性の一方的な押し付けである側面もないことはなくて、それが反発を呼び起こすこともある。だから結局は、特に芸術をドキュメンタリーが相手にしようとするなら「センスが問われる」という身も蓋もない話になってしまうことであるのかもしれず、センスが合わないならそれでその人にとっては価値のないものになりジ・エンドということにもなってしまう。たまたまこの映画のセンスに僕は共鳴することができたけれども、たとえできなかったとしてもそれに対する批評性というものをもちうることは可能で、それは映画を楽しむことといったんは距離を置かなくてはならなくてつまらないことになってしまうかもしれないけれど、「なぜこのような技術の使用をしたのか」ということにアンテナを張ってみることも、まさに「同時代において」ドキュメンタリーを見る人にとっては必要な覚悟であるのかもしれない。

 まあ事実、「これは映画館でなくてもいいでしょ」というようなドキュメンタリーが粗製乱造されていることはあって、テレビや今ならYouTube的だったりSNSでの動画だったりすることとの「差異化」はどうしても意識されざるをえない。だから今回のこの突如発生した映画談義は、映画館の大画面で良い音響でそれを体感すること、映画独自の「最新テクノロジー」の効用と、またそれがどう価値付けされるのか、について考えるよい機会でもあったのだった。叙情性なんていうものは当然プロパガンダにも容易に転ずる両刃の剣だし、100年前からベンヤミンや中井正一が言っていたことでもあった。衰退しているとはいってもまだまだ映画はそのような問いと格闘せざるをえないというわけでもあったのだ。最終的には、「対象の解釈」の提示において、(文化人類学やエスノグラフィーに付随するものに近い)社会性と倫理がどこまで意識されているのか、という問題でもあるのかもしれないけれど。


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