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noteやSNSでの違和感「困っている人を助ける人への違和感」ビジネスのコツを考える

noteやSNSでの違和感のひとつ

それは困っている人を助ける人への違和感の話。
誰だって何かに困っているのだから、性善説で私は少しでも助けられるなら助けたいと思っている。
そんな中で、困りながら「頑張っている・努力しているのが見える人」と、「全く何に困っているのか見えない人」がいるのだが、それを見分けずにただ助ける人が違和感の種なんです。

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困っている人を見ると助けたくなるのが人情だが、それはなぜなのか、相手を本当に思いやってのことなのか?
 実は、自分自身の「つらい気持ち」から逃れるための行動らしいことがラットの実験からわかった。米シカゴ大学の研究チームが心理学誌「フロンティア・イン・サイコロジー」の2016年6月28日号に発表した。
自分で自分を救い、愛することができないのに、世のため人のために尽くすことにこだわることを、「メサイア・コンプレックス」といいます。

困ってますアピールへの神対応

私は自己中心的な人間でした。

過去形なのは、最近は人と関わることを極力しなくなったから。
一気に今までの人付き合いを切ったため、noteなどの投稿を通じて、辛うじて世の中と繋がっている。

昔は人脈を作ることを優先していて、それで細々と食いつないでいたから、かなりの人数とMTGやら会食やらを行っていた。

その中で困っているんですというフレーズが出ると、助け舟を出してしまっていた。
数百万単位で。

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困っているなら、私は余裕があるんだし助けてあげよう

今考えると、どんだけアホなんだと思うが、当時は偽物の正義感に溢れていた。

自分が他者から特別で優しい人に見られたいという、自己中心的な動機が、自分で見えていなかった。

メサイア・コンプレックス

自分に対する劣等感や嫌悪感、自己愛が足りない。
それが無理にでも誰かに尽くす、美しい自分像を作ってしまう。

そんな状態の自分が、Twitterやnoteで困っている人を見かける。

助けたい衝動が起きる。

嘘の困ってますアピール

あなたは本当に幸せだろうか?

誰かを助けるということに、自己中心的な動機はないだろうか?

例えば、かわいい・かっこいい人が困っているとアピールしていて、それを助けてあげようとしたことはあるだろうか?

そこにある気持ちに、もしもこの人と繋がれたらと思ったりしていないだろうか?

自分の優位性を示したい欲求から、形だけの助けてアピールに踊らされていないだろうか?

私には、人助けというのは無償で助けられる立場の人が行うべきという基本的な考え方がある。

その考えの中に、当時の私のような「誰かにとって特別でありたい」という自己中心的な考え方があってはいけないと思うのだ。

助けてくれるなら別に誰でもいい

あなたでなくても、釣れる人は全部釣る。

助けてと叫ぶことで、誰でもいいから釣っていこうという人も実際にいる。

そういう商いのパターンも存在する。

これが儲かる。

その儲けは、あなたが支払ったお金だ。

助けたからあなたも満足したし、助けられたから相手も満足だ。

でも、、、

SNSに見る二転三転

SNSもなかなか便利なツール。

私、すごく悩んでいます!会社が潰れそうで困っています!

といっていたTwitterアカウントが、結構いい店での食事をInstagramアカウントに定期的にアップしていたりする。
過疎化したFacebookで、高級車を買って海外で豪遊している写真を公開しているのを見た時は、商いの本質を見た気がした。

※あぁいうのを裏アカウントというのか??

しかも、応援するよ!という盛り上げの第一陣もグルだったりして困る。

もう死にたいとの書き込みがあって応援やフォローが集まるが、本人の別アカウント(同一アカウントの時もあるが)で、あーぁもっとフォロワー楽勝で増えねぇかなーと書き込まれていたりする。

これは目的に向かって、すばらしく貪欲な行動で、私は見習わなければならない。

そこで思いつく商法がある。

閉店商法

顧客の誰かを助けたい気持ちも満たされるし、物も安く買えるし、もう最高の商法ではないだろうか?

商いは継続性

私は、商いはゴーイング・コンサーンであると学んだ。

その面でも、閉店商法は、私の理想とする商売だ。

終わることを継続する閉店商法とは、逆説的であり、心理的であり、哲学的であり、美的であると感じてしまう。

商いの批判はしていない

私はどんな商いの手法も、基本的に肯定している。

詐欺だろうがなんだろうが、商いとして成立しているなら、なんだっていい。

相手が満足していれば。

ただ、私は、あなたがそれに無意識に加担することを批判するかもしれない。

リフォーム詐欺の例

リフォーム詐欺で実際にあった話をしよう。

①Aさんの家にリフォーム詐欺業者参上。

簡単な修繕をしたフリで作業完了。
Aさん、業者に説明されたことを鵜呑みにして大喜び。
※安価

③業者「売上がカツカツでどこかお宅を紹介願えないか?」

④Bさん宅に、Aさんが業者をオススメする。

⑤Bさんがかなりの金額を上乗せして取られる。

私は「本質を見ずに、無意識に他人の商いの片棒を担がされる」ことに対して、批判的な立場だ。

誰も悪意に気づかなければ平和だ

上記の業者の悪徳な面に、AさんもBさんも気が付かなければ平和だ。

それでいいのかもしれない。

でも、私はAさんになりたくない思いがある。

それはこのnoteでもそうだ。

noteをたくさん読んでいると、この本当は困っていない困っているアピールを見かけてしまうことがある。

既にあなたの脳裏に、あの人???と思い浮かんだとしたら、よく考えてほしいし、同じ違和感を持って日々を過ごしている同志だと思う。

noteユーザーが増える(私がnoteをやりはじめたくらいだから)と、こういう手法は有効性を増すかもしれない。
分母が多い方が有効だ。

クリエイターがたくさんいるように見えるnote。
そのクリエイター業で安定収入を得ている人がどれだけいるのかという疑問符がつくが、noteのユーザー分母は大きいらしい。
そんなnoteで、私はとても困っていて助けてほしいのだと書き込んである。
同じnote仲間として見過ごせるだろうか?

ただ、本当にその人は困っているのか?
裏取りできるだろうか?

あなたは今、助けるべきなのか?

瞬間的な思いで、瞬発的に助ける行動が、本当に正しいのか?

助けた見返りが欲しいなら、しっかりとした見返りが保証されている助けてコールに答えるべきだし、無償でバンバン助けられる立場なら、助けてコールを発している人には、別け隔てなく助ければそれがいいと思う。

あなたの行動を見た誰かが、あなたを信頼して行動を起こした時、思いも寄らないトラブルに巻き込まれてしまったら、、、

Twitterのリツイートでの虚偽情報拡散もこれに似ている。

私のTweetを最初に掲載したが、これがnoteに見る違和感のいくつかの内のひとつである。

困っているなら困っていると発信することは、はっきりいって、いいことだと思う。
何に困っているのか、文字にしてみると、考えがまとまったりするものだ。

でも、困っている人を助ける人の心構えは、困っている人のそれ以上にあった方がいいのではないか?

そう思うのです。

いつもお読みいただき、ありがとうございます。 書くだけでなく読みたいので、コメント欄で記事名入れてもらうと見に行きます。