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「太陽の塔」という奇跡体験アンビリーバボー。

高さ70m、幅25mから成り立つ、吹田が誇るバベルの塔。
1970年「未来と科学」、「人類の進歩と調和」をテーマとした大阪万博に対する、
堂々アンチテーゼとして発表された「太陽の塔」

「岡本太郎」、元より「芸術」に対してあらゆる表現者がこんなにも固執する理由とは何だろう、とずっと考えていた。

そして今日、限りなくその答えに近づいた。

車から降りた時点で展望出来る2キロ先の
"それ"はあまりに巨大で、
「こいつは手始めのジャブだ、くらえ」と言わんばかりに、先ずはこちらの遠近感が狂い始める。
この時点で僕の動悸は止まらない。

自然文化園の入場料、大人一人260円。
「(これ儲かんのかなぁ...)」なんて考えながら、ソーシャルディスタンスに則りモギリはナシ。

本来半券になる筈だった切符を片手に、一歩、また一歩と、芸術家が足繁く通うモスクへと誘われて行く。いや、正しくは、"彼等"の方からジリジリとこちらに近づいている様な錯覚を与えられた。それ程異質な圧迫感があった。

塔に近づくにつれ動揺が収まるところを知らず、柄にもなく吐き気を覚えた。
淡い初恋に似たドキドキというか、合否通知表を開く際の寸時、呼吸の仕方を忘れるあのなんとも気持ちの悪い感覚というか、
僕の心根に置いてある、「概念を木っ端微塵に叩き潰してくれ」という感嘆に応えるように、"彼等"は口を開く。


岡本太郎そのヒトとなって。


彼の言葉は実際に作品の中へ落とし込まれていた。
僕を肯定してくれていた。
そこには真実の愛があった。

塔を半周した頃には、観光客の目も暮れず1人、塔を見上げながらただ泣いた。
湧き出る感情に歯止めが効かず、
とにかく泣いた。

(こうして手記として残せているのは、今改めてあの時の感覚を冷静に言語化している為であって、センセーショナルな体験過ぎて何が身に起こったのか当時は理解できなかった)

己のキャパシティを超えるアートの概念そのものが、僕の脆弱な定義、嘆きや苛立ち、塗り固められた嘘の八百、懐疑的な見解等の畜生の数々を浸食し浄化してゆく。
薬物依存に似たアドレナリンの飽和が本当に気持ち良かった。

半世紀の間、多々の芸術家を魅了してきた鉄筋コンクリート仕立てで反骨面した巨人の言葉は、


今日、間違いなく僕の聖書の一節となった。


「人は皆孤独である。その孤独の中にこそ本質がある。愁う事なく進め。」

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