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どうやら日記だったようです。

見えるものを、信じてはいない。
と過去記事でよく書いている。


けれどそのくせに、わたしには

見えないもの
愛だとか心の性とか感謝とかを
心の底で疑うことをやめられない癖がある。


条件付きの愛ではないのか
ミソジニーゆえの同性愛ではないのか
メリットあるゆえの感謝ではないのか

とか、なんとか。


こういうことを現実に人に話すとエライ目に合う。
当然ながら。
ので話すことはほぼない。よっぽどでない限り


かと言って、
見えるものは信じるのかといえば
全くそんなこともない。

例えば、

見かけは男性である人には
男性への淡い思いが皆無であるとか

誕生日プレゼントを買ってもらった子どもは
親にとても愛されてるとか

ありがとうと言う人は全て感謝で震えているとか

そういう、
見えるものがホントだと思ってない。


じゃあ何も信じてないのかと言えば
ものすごく信じて疑わないものもある。


だけど言葉になりにくい。
ものすごくめんどくさいが、よくよく考えてみると

信じないで疑うことと
信じて疑わないことは
わたしの中ではあまり違いがない


信じられなくとも、
疑ってる時点で信じてるじゃんとおもうし

信じて疑わない自分が
疑うことを辞められなくて当然だとおもってる。


そういう信じてるものが
昔から頑なにあることを、
面の皮が厚くなるまでは疎ましくおもっていた。


かなりの確率で
人間関係に問題を起こしてしまうから!

それにいちいち一喜一憂していたから!!


たぶんいま、現象そのもの、に
あまり魅力を感じてないし
現象として自分の中に入ってくることを
簡単に許してないのだろう。

現象に対して斜に構えている。

起きたこと自体は仕方ないので受け止める。

ただ、自分に入れるものは
自らの消化酵素で溶かさせてもらう。


そうして、
1番すきなものに変えて入れているんだとおもう。
信じてるものに変えている。


それは物語だとか、クエストだとか
ベクトルとか、パズルだとかになっている。
わたしの場合。
脳のどこかが壊滅的に使えてないんだろうなぁと
おもって自分を俯瞰している。


自分を医学的にコントロールすることを放棄して
去る者追わず来る者拒まず
期待に応えられないまま
悲しまれたり怒られたり敵意向けられたりするまま
してくれたからするのでなく 心のまま
好きだとか嬉しいとか愛してるとかのまま
悲しみも悲しみのままだ。

受け身なのか、流しているのかわからない。
思考停止なわけでもないのだ。
例えるなら川に浮かべた笹舟と、心境が近い。


言葉を疑うから
その人を大事にしてるのだとおもう。

言葉に心が必ず現れることを知っているから
人に慎重になるのだろうとおもう。


その感性の持ち主を前に尊みを感じ
自分との違いを違いとして眺めている。
優しいという評価を貰うことは今ほぼない代わりに
静かで生きやすくなった。


見えない神だとか神聖なものを
疑うくせに
自然の力の前になすすべも無くなる自分だとか

愛だとか恋だとかが
妄想なのか本物なのか見極めたいのに
簡単に喜びを感じてしまうだとか

性に滾るカラダであるとか


そっちが、いまは自分の中で
より、言語としての役割を果たしているようだ。


世界と自分とのハブを
言葉だけに頼らなくなってからというものの
ますます
信じている何かが
明確に濃く輪郭が露わになった気がする。


こんなことを人に話すことはないのだけど
そろそろ、そういう話をできる人と
仲間になりに行く日が来た気がした。
出会えた確信はこれから固まるのだとおもう。

答えが先にきて、全て後付けになる感覚がある。

ようやく入り口に立った。たぶん、今日


待ち望んだ。
本気で人と繋がるということを知ってみたい。
どんなに時間がかかってもいい。
すべてをかけて、始まるのだ。


あ、これ日記だな。


#日記 #信念