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透明なトンネルの中から

書く、気持ちは、どこからやってくるのだろう。

なにか出来事が起きたときに、沸き立つ感情への瞬発力が、わたしは高くない。
透明なベールを頭にかけられたような感覚で、その場その場を、ただじぶんとして過ごしている。というか、存在している。文字通り、存在を行使することしかできず、ただわたしという人をこの目は脳の画面に映し出す。

その場の言動がわたしの今と過去の全てで、一瞬ごとに、過去は次の画面をめくる。

ん?未来って、あるんだろうか。
まるで迷信のようなアヤフヤなものを、あえて使うなら、過去と今を行使するこのカラダは、未来と言えるのかもしれない、なんて考えてみたりする。内包するのに存在しない。未来は、まるでゼロのよう。神秘的で、哲学的な存在だな。

過去と今が連続する、その時のことを、透明なベールと感じるわたしは、透明なトンネルの中をただ進んでいくだけ。いや、正確には、渦中のわたしは、洗車中の車内にいるような掴めなさをいつも感じている。
出来事が、わたしという人を通り過ぎていってしまう。
それなのにいつの間にか、過去のじぶんとは異なる反応をするじぶんに驚き、初めて、足元が自転していたことを知る。

その全てを言葉にするのが、やはり遅いのだとおもう。

全てでなくても、いいのだろうに、ね。

きっと、わたしはその言葉に囚われてしまって、あのトンネルが終わってしまうことを、あのトンネルが透明でなくなってしまうことが、怖いし嫌なんだ。

トンネルは透明でなくちゃ、意味がない。

進んでいるのか通り過ぎていくのかわからない、あのトンネルはもう今しか潜れない。それが、誰かの命と引き換えのトンネルなら、尚更。

ただこの透明なベールに、溶けてしまうのだ。