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僕が"自然”を好きな理由

人は、本能的に"自然”を求める生き物?

本格的な山登りや海遊びまでとは言わなくとも、
空き時間に緑のある公園へ行きたくなったり、
河川敷でピクニックをしたくなったり、観葉植物を見て心が落ち着いたり、風に当たって気持ちよくなったり…

誰しも、そんな機会はあるのではないだろうか。

なぜだろう。
なぜ、そんなふうに人は思うのだろう。

僕は悩んだり、心にモヤモヤがあったときは
必ず山に行っていた。
すると、すーっと悩み事が消える、とまではいかなくともどこかスッキリしたような気持ちになる。

よく山に助けられたもんだ。

これは別に魔法でもなんでもなくて、
森林セラピーの効能というのが確立されてるぐらいなので、科学的にも裏付けのあることらしい。

ただ、今回はもっと奥深い理由があるんじゃないかと、ふと思ったので書いてみる。

「自然は誰をも拒絶しない」

これは、僕が大好きな言葉で
まさに、その通りだと思う。

山や海に行ったからって
「あんた来んといて」
など、言われることはない。

ただ木は生え、ただ波は揺れ、
ただ日が登って、暮れていく。
美しい景色を見せてくれるかと思いきや、
ときには、荒らぶり人を死まで突き落とすこともある。
彼らは、ものさしなんて持っていなくて、
人をジャッジすることは一切ない。 

自然は、完璧に中立的であり、ただ存在しているだけである。

話を戻すけれども、これがまさに
人が本能的に"自然"を求める理由なのではないかと思う。

つまり、人は"ただ在ること"を認めてほしいから
自然の中に身を置きたくなるのではないか。
ということ。

誰かの役に立ってるか?
それは意味のあるモノか?
意味のあるコトか?
お前に能力、生産性はあるのか?

常に、そんなことを言われる。
言われなくとも、そんな目で見られる社会。

もちろん、他者貢献のために
自らの能力やスキルをあげていくのも
ヒト本来の幸せの尺度かなとも思う。

けれど
それで、うんと疲弊しすぎてしまうのも、
また事実。

特に、ヒトが苦しい、しんどいときは
まず、"ただ在る"ことを承認してもらえて
初めて、次に進むエネルギーが湧き出てくると
僕は考える。

もう一つの観点だと
自然が"ただ在る"からこそ、人も「ただ在る」状態へと伝染していくという側面もありそうだ。

#自然 #登山 #山登り

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