地下深い森

 小さいが、深い森がある。
 というのも、その森の面積は庭つきの一軒家ほどの大きさで、きっとその家は老夫婦が二人、わずかな収入でひっそりと暮らしているのだろうと想像するほどのものだ。
 荒野に数えるほどの木が密集して生えている様は、不気味なオアシスだった。

 深い森というのは、その名の通り深さのある森。地中に秘密がある。
 森へ一旦入ると、古い絨毯とユリのような匂いが鼻腔をくすぐる。間違えて明かり一つついていない暗い洋館へ忍び込んでしまったと錯覚するだろう。しかし、立ち去ろうとした時にはもう遅い。どのくらいの直径かさえわからない穴の中へ、すっかり落ちてしまっているのだから。
 
 そうして男は森の地下へやってきた。
 ずいぶんと落ちてきた気がしていたが、地面なるものに触れた時に命を落とすことはなかった。それどころか、骨が砕けている様子もない。
 視界はない。暗闇に目が慣れることさえもない。
 だが、男は鼻がきいた。
 水中植物の匂いだ。特に湖に繁殖する植物の花の匂いがした。
 
 男は視界のない中、地面を這いずり回って木の枝を見つけ服の繊維をくくりつけた。
 糸の先にその辺で拾った小石を結ぶ。ポチャン。
 湖に住む生物が釣れることはなかった。

 屋根はあるが壁はない、まだ良い方の停留所のような家をつくった。
 不思議なことに、木の枝と石はたくさん転がっているが木の葉は一枚も落ちていない。そのため、隙間だらけの屋根小屋となった。
 雨が降ったら、寒いだろう。

 一軒家ほどのごく小さな森と見ていたが、地下は広かった。
 歩けば歩くほど深みへ入っていくような気がしたが、呼吸ができるということは地上への出口もあるはずだ。
 だが、男は30分ほど歩いたところで家に引き返した。悪臭が立ち込め鼻がもげそうで方向感覚がなくなってしまいそうだったからだ。
 湖を超えたあたりから、森の地下には嗅いだこともないような何ものにも例えようのない悪臭がした。
 悪臭をかいだ男の鼻が直るのには一週間を要した。もちろん、ここに時の経過を計るものはない。

 木の枝に延々と水草を巻き付けていた時のことだ。男は大切なものを湖に落としてしまった。鼻と脳に染みついた匂いがどんどん遠ざかっていく。
 まずい。男は湖に飛び込んだ。
 水をかく回数を数えるのをやめた頃、湖底にたどり着いた。あたりにはユリの香りが充満し、その中に柔らかな香りを放つ鉱石を見つけた。

 木の枝に水草の蔓を巻き付けた「縄」で湖底に沈んでいた鉱石を引き上げた。
 屋根につっかえて、小屋におさまることはない。
 男は水気を拭き取ったミノを鉱石に突き立て、思うままに削っていった。
 男は弟子をとるほどの熟練彫刻師だった。

 彫刻が完成する前に鉱石は砕けてしまった。
 鉱石は側だけで、芯は別のものだったからだ。
 鉱石から香っていた柔らかな匂いが一層強くなり、男は両手を広げた。
 シルクのドレスを着た花嫁が男の胸に飛び込んできた。
 
 花嫁に記憶はなかった。
 視界がなく、不安になるのか、しきりに男を呼んだ。
 湖底を調べているというのに、何度も呼んでは男が返事をするのを待った。
 湖底にはいくつもの鉱石が沈んでいるようだった。
 サイズは不定。そのどれもから、悪臭と一人ぼっちの時間のせいで忘れかけていた人間の匂いがした。

 花嫁以来、鉱石を削っても人間が出てくることはなかった。その代わり、鉱石が砕ける度に鼻をツンとさせる臭いが広がった。
 花嫁は水草を屋根にひっかけ干すことで、食料を作っているようだった。
 男は鉱石の破片をミノにあて、肌触りの良い石をつくり、花嫁に与えた。
 花嫁は様々な動物を模した鉱石を指の感覚で確かめ、男の器用さを褒め喜んだ。

 しばらく日が経つと、削ってしまえる鉱石は一つもなくなっていた。
 男は、花嫁と話し合い、居住地を移動することにした。
 片手で鼻をつまみ、もう片方の手を花嫁に握ってもらった。花嫁の手は細くて小さいが、握っていると安心した。
 湖を超えた先へ進む。鼻をつまんでいるとはいえ、わずかな隙間から悪臭は鼻腔に立ちこめた。しかし、以前のように我慢ならないほどではない。
 
 丸三日は歩いた。
 もちろん、どこにも時の経過を示すものはない。
 男はついにしゃがみ込んでしまった。涙が流れていた。かと思うと、頬に固形物が張り付く感覚を覚える。それは、涙のあとをなぞるようにくっついていた。こすると痛い。爪でひっかいて落とそうとしたが、皮膚ごとはがれてしまいそうだったので、やめた。
 それが余計に男の精神を病ませた。
 男の丸い背中を花嫁がさすり、立ち上がる勇気を与えた。
 
 出口を求めて行き着いた先は、行き止まりだった。
 例の鉱石が塞いでいる。しかし、湖底にあったものとは比べものにならないほどの硬さと見る。
 ミノを突き立てれば、鋭い音が鼓膜を振動させた。
 すると、花嫁がその音を酷く嫌がる。
 男は花嫁が眠りについたのを確認し、静かに鉱石を削り始めた。
 
 結局、鉱石から出てきたのは出口とは全く別のものだった。
 人間のようだが、動きもしなければ喋りもしない。
 男の死体を見て、花嫁はとある記憶を取り戻したようだった。
 途端に声を殺して泣き始めた。嗚咽の間に記憶の断片が混ぜ込まれる。
 聞けば、自分たちは見習い彫刻師にミノで一突きにされ殺されたのだと言う。
 男は黙って、花嫁が語る事実を聞いていた。
 
 花嫁の涙が風に運ばれ飛んでいくのがわかった。
 鉱石から出てきたのは「人間」だけではない。おまけのようについてきた出口のかけらがそこにはあった。
 男は人差し指が通るかどうかの出口にミノを差す。
 花嫁は一層泣いていた。

 森から少し離れた地上に出ると、花嫁の姿は消えていた。
 その代わり、大輪のユリが足下に咲いていた。シルクの香りが混じっていた。

 森に戻り、男は死体を穴に放り投げた。
 ミノを頭に突き立てた途端に出来た死体だ。やっとの思いではあったが、互いの信頼関係が功を奏し作業はごく簡単だった。しかし、殺害したのはいいものの、処分するまでにこれほどの時間がかかってしまおうとは。
 とはいえ、これにて完了。死体は、自分が殺した花嫁たちの怨念に包まれ、幾度となく訪れる死を重ねるだろう。

 男は木に立てかけておいた白杖をつかみ、森を後にした。
 途中、ポケットに例の鉱物の破片が入っていることに気がついた。とがっており、つまみ出す際に指の腹に刺さった。痛かったが、花嫁が感じた痛みとは比べ物にならないと思うと途端に痛みは消え去った。
 頬に馴染みつつある涙の筋に沿った鉱物が厚みを増していくのを感じて足を止め空を仰いだ。
 清々しい晴れ間を鳥が群れをなして飛んでいた。

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