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クリエイティブではない僕だからこそ考えたい「創造」の話

稀にだが、文章を読んだ後、激しい興奮に襲われて、しばし放心状態になってしまうことがある。

夢中で読み進め、一息で読了し、正直そこまで内容が頭に残っているわけではなかったりもするのだけれど、雷に打たれたような気分になる文章がある。測ってないけれど、たぶんそうした状態になったとき、心拍数はものすごく上がっているだろうし、頭に血がのぼって立ちくらみ寸前になっているだろう。

つい数ヶ月前、僕は久しぶりにそんな文章に出会った。


(※)本ブログは、株式会社PLANETSが発行する雑誌『モノノメ 創刊号』について、そのいち編集部員である僕が、個人的な所感を綴ったものです。このブログを通じて、より多くの方に『モノノメ 創刊号』を手に取ってもらい、既に購入いただいた方にはより多角的に雑誌を読む一助としてもらいたいという目的で書いています。

その文章とは、PLANETSの新雑誌『モノノメ 創刊号』に収録されている、[論考]井庭崇「創造社会における創造の美:クリストファー・アレグザンダーと柳宗悦を手がかりとして」だ。編集部員である僕が、雑誌内の記事についてそこまで絶賛するとステマ感が半端ないが、本当にそうなってしまったのだから仕方ない。この記事だけは、ちょっと過剰に見えるかもしれないが、他の記事とは違うトーンで書かせてほしい。一つだけ言い訳しておくと、この記事に関して僕は企画や編集にはタッチしておらず、最後に校閲者という役割で少しチェックしただけ。ので、別に「自分がすごい記事を作ってやったぞ!」と自慢しているわけではない。


さて、なぜ僕はこの文章に惹かれたのか。

僕はかねてより、人間の創造性、もっと言えば「つくる」という行為そのものに強い関心を抱いている。

ただ、僕自身は全くもってクリエイティブな人間ではないと思う。学生時代にアプリを作った経験も、サークル仲間と同人誌を立ち上げた経験も、血気盛んな学生として会社を立ち上げた経験も、作曲や絵描きに熱中した経験もない。

だから、誤解を恐れずにいえば、天才的なクリエイティビティを有した人の制作物は、僕にとって最大の興味の対象ではない(言うまでもなく、そうした人々の生み出すものを味わうのが大好きだし、そうした作り手の方々のことは深く尊敬している。僕が考えたいことの、優先順位の問題だ)。


僕が一番興味があるのは、僕のような特にクリエイティブではない人でも、誰に見せるわけでもなく、日常生活の中で自然に取り入れられる「つくる」だ。

いつもより少しだけ時間をかけて自炊してみたり、部屋の配置を変えてみたり、ちょっとした植物を育ててみたり、洗濯物のたたみ方を工夫してみたり。そうした些細な「つくる」は、別にSNSでのいいねは集められないかもしれないけれど、その「つくり手」に小さな充足感をもたらしてくれる。何かしんどいことがあったり、忙しさに殺されそうになっているときでも、自ら手を動かし、少しだけでも世界に何らかの変化を及ぼすことで、自分を保てるような感覚がある。

言わばセルフケア的な「つくる」こそが、多くの人々の暮らしに豊かさをもたらすはずだ──クリエイティブでない僕だからこそ、そんな問題意識を強く持っている


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そんな中で出会ったこの論考。建築や芸術作品の制作から日常生活まで、さまざまな創造や行為に通底する普遍的な規則を抽出するパターン・ランゲージ研究の第一人者である著者が、日本独自の生活工芸運動「民藝」の思想との関係性に迫るものだ。

民藝に関しては、仕事で少し関わることがあったり、ここ最近またブーム的なものが起きていることもあり、前述の問題意識と何か結びつかないかと自分なりに少し勉強はしていた。

井庭さんが最近提唱されている「創造の哲学」についても、同じく自分の問題意識に近いところがある気がしていてチェックしていた。ただ、井庭さんが民藝に関心を持たれていることや、パターン・ランゲージの思想と民藝の関係性については露ほども知らなかった。

そうして自分の中でバラバラに沈殿していた知識や問題意識と、この論考で新たに知ったことが一気に化学反応を起こし、雷に打たれたような気分になったのだ。


この論考が衝撃的だったのは、先程述べたような「クリエイティブでない人による、天才的ではない創造」こそが「深い創造」、ひいては「深い美」に結びつく可能性があると思わせてくれることだ。

それはもちろん、「インターネットがあれば誰もが表現者になれてクリエイティブな社会が来る!」といった類の、だいぶ昔に間違いが証明されてしまった、ボトムアップの創造性を素朴に信奉する議論では、もちろんない。

井庭さんの議論はパターン・ランゲージのような「型」、一見するとクリエイティビティとはほど遠そうな「型」を導入することで、僕なりに言い換えれば個々のクリエイターの自我を殺すことではじめて、「深い創造」や「深い美」が訪れるとするもの。素朴なボトムアップの夢を諦めたうえで、それでもポジティブに個々の創造性を高めるための提案と、僕には読めた。

人々が自分(たち)に必要なもの・つくりたいものを自分(たち)でつくるようになる「創造社会」においては、共創ギルドとパターン・ランゲージが人々の創造活動を支えるようになる。それにより、無心・無我の状態で自然なプロセスで「つくる」という「深い創造」が可能となり、その結果、「深い美」が生み出されることになる。それは、工業的製造とは異なる農業的育成としての創造の復興であり、自我の欲や利益の最大化を追究してきた時代から、よりナチュラルで共創的な時代への移行を意味する。(p220)

この井庭さんの渾身の論考から受け取った衝撃を僕なりに消化しながら、僕もこれからも引き続き、自ら生活を「つくり」ながら、「つくる」ことに着いて考えていきたいと思う。自分はクリエイティブではないけれど、豊かな生を送りたい──そんな気持ちを持っている人こそ、読んでほしい記事。


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