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6月20日「研いだ刃物のような花束」


雑記に意味のないポエミーな題名つけるの楽しい

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16th Jun.

時間の流れを振り返ることに罪悪感を感じる。過去をひとつずつ覗いて感情を馳せることになんの意味があるんだろうと思うこともあるけれど、きっと私はその行為がとても好きなんだろうと思う。未来について想像を膨らましている時間よりも、圧倒的に、もう起こってしまった変えられないことを、飽きもせず、何回も思い出している時間のほうが長い気がする。思い出は記憶の集合体で再構築された創造物で、思い出してしまえばそれはもう幻であると言った人の言葉を、私はそれをとても好きだと思ったと同時に、記憶と思い出の違いについてやっぱり今も考え続けている。

そうやってなにかとても大切なことを色々と考えていたはずなのに、鞄からパソコンを取り出したところですっかり忘れてしまった。家へと向かう電車のなか、ゆっくりと変わっていく景色を見ていたときだった。たまに言葉が身体中から溢れ出して止まらないときがあるけれど、紙面または画面に着地せず落ちていったそれらを、もう一度掬い上げることがやはりとても難しい。忘れないように、忘れないように、と思いながら日々を過ごしているけれど、結局ほとんどのことを忘れてしまう。つらつらと綴る意味のない文章だって、私にとっては代替不可な宝物であると、忘れてしまってからようやく気がつくことがある。

前にもこの話をどこかでしたような気がするけど、最近はなにか特定のものや人へ向けられた言葉に心を動かされることが多いなと思う。うそ、違うな。心を動かすという言葉は強すぎて、実はあんまりしっくりきていないのが正直。やっぱり私は心に触れるという言葉が好きで、それは真っ白でふわふわなうさぎが、優しく私の手を舐めることで表現する好意のようだと思った。長い耳の間を撫でられるのが、気持ちよかったのだろう。猫よりもマイペースなそのうさぎは、お礼に私の手をペロペロと舐めた。暑さに弱い彼女の舌は思ったより熱を持っており、私はそれがくすぐったくて嬉しくてたまらなかった。そういう優しくて、柔らかくて、確かに熱を持って存在する何かが私に触れることで、体の真ん中にある感情が形を少し変えること。

私の文章もそうであってほしいなと思う。特定の誰かに向けて文章を書くことはたまにあったりもするけれど、ほとんどの全ては、自分に向けての言葉なんだと思う。綴ることで自分を型どることが、できるような気がしているのかもしれない。

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19th Jun.

朝四時。友人の家をでたとき、あたりはうっすらと明るかった。空が深く青い色をしていて、きっとこれが群青色なんだろうと思った。色に細かく名前がついているのは日本語の素敵なところだと思うけど、同時に少し退屈だなとも思ってしまう。誰かが先に見つけたその色は、最初から私のものではなかったんだとがっかりする。

明け方の帰路を一人で歩いていると、そういえば、朝が好きだったなと唐突に思い出した。最近はあんなに怖くて仕方がなかった朝を、私はとても好きだったんだよなと。朝は絶対に私だけの時間で、誰にも干渉されない、一日の中でも特殊な時間だと無意識に思っていた。ずっと幼い頃からほぼ毎日夢を見ていたから、夢の中でも誰かと一緒にいる自分が、ほんとうはどうしようもなく一人であるのだと、思い知る瞬間が朝だった。

前住んでいた場所は小さな丘の近くにあって、私は街を遠目に見下ろすことができるベンチで朝日が昇る瞬間をみるのが好きだった。あつあつに淹れたコーヒーを家から持ってきて、日の出が遅い冬の日、空の色がゆっくりと変わっていく様子を見るのが好きだった。曇りが多いこの街で、冬の柔らかい寒気をまといながら優しく晴れた朝は、それだけで幸せだった。誰かと繋がっていたいとずっと思っていた自分にとって、そのひとときだけは、どうしても守りたい独りの時間だった。美しい時間だったし、愛していた。

忙しくなったり、精神的なゆとりがなかったりして、最近の私は朝を逃し続けていた。久しぶりの朝。薄明るい群青色の道を一人で歩いて、あの場所は、あの日の朝はもう私には訪れないんだと思うと、なんだか少し悲しくなってしまった。



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