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1月10日「どうしても生きてる」

匂いを思い出すことはできないけれど、匂いによって思い出されることはたくさんある。悲しみもきっと、その一つだ。異なる悲しみには共通するある匂いがあり、それは私の鼻先をかすかに掠める。その匂いを嗅いだとき、私はきっと無意識に、今までの人生の悲しかったことを全て思い出してしまうのだろう。もちろんそれに気がつくときもあれば、気がつかないときもある。だけど確かなのは、たくさんの悲しみが日々に確かに存在していて、その匂いは私にだんだんと染み付いていく。どんどん濃くなって取れなくなる。積もる悲しみを抱えて生きていくことが、当たり前になる。飲み会でコートについてしまった、冬のタバコの匂いみたい。

朝井リョウの小説を読んでいた。それはとても悲しくて、なにが悲しいかというと、異なる短編にでてくる異なる悲しみを、それぞれが背負って生きていかなければいけない悲しみが、もう少し先の自分に訪れることを予期しているようだったからだ。そしてそれは、気づかないうちに実は始まっている。私の止められないところで、悲しみは生まれ、育ち、まるで母親をの姿をおいかける子犬のように、私を探し求めてやってくる。

母の一言は、まるで突風のようだった。ビュンと私の前髪を乱し、そしてすぐ何事もなかったかのように、あたりはシンと静まり返った。でもその一瞬だけは、私の心もどこかに飛ばされてしまっていたみたいだった。ぐわんと世界がひん曲がり、終わっていくような感覚を覚えたが、私はそれがただの感覚に過ぎず、世界は日々として続いていくことをすぐに思い出した。

母がそれで幸せになれるなら、なんの問題もなかった。帰省と、お金のことと、介護とお墓と、その他もろもろがめんどくさくなるだけだ。でもその問題は、まだ私の半径5メートルに侵入してきていない。だからまだ、考えなくていい。

「そうなると思っていた。私もそうした方がいいと思う」と私が伝えたあと、母は肩の荷が降りたと言った。母の肩の荷になってしまっていたことを、私は辛いことだと思った。そしてようやく、父の心配をした。親としては大好きで、だけど「私は絶対にこんな人と結婚はしない」と反面教師にしていた人のこと。母がいなくなったら、父の寿命は5年くらい縮まりそうだ。祖母の家に滞在したあと、家に帰ると居間がいつも暗く煙っていたことを思い出す。灰皿にこんもりと守られた吸い殻、食べ散らかしたコンビニのお弁当、行き場を失って淀んだ数日前の空気。差し込む西日とあいまってチグハグになったその部屋は、私が育った部屋ではないような気さえした。

私が帰省している間、母はずっといつか言おうと、夜寝る前に考えていたのだろうか。まだなにも知らない父は、悲しむだろうか。それとも何も感じないんだろうか。悲しいことは、積もり積もる。大人になればなるほど、私はそれに敏感になり、そして扱い方を見失っていくみたいだ。もしかしたら父も、母も、とっくのとうにわからなくなってしまっているのかもしれない。大小さまざまな悲しみが重しのように乗っかって、でもそれをどうしていいのか、ずっとわからなかったのかもしれない。

ひとりで東京に帰ってきた。羽田空港の、国際線とよく似た国内線の道。泣きそうになって、こらえた。ずんずんと抜かされていく人々の波に呑まれて、窒息してしまいそうだと思った。そんな情緒だと、ふと目に入る電光掲示板に並ぶ異国の街の名前に、簡単に心は折れそうになる。いままでは通過点だったのに、いまではもうここが最終目的地になってしまった。私は悲しかった。でも大きな終止符に向かって歩き出した、母の方がもしかしたらよっぽど悲しく、そしてよっぽど自由なのかもしれないと思った。

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