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mixtape, 25

日の目を見ることがなかったランダムなメモ&下書き供養。


真夏のピークがさったかどうかを
誰かに尋ねないとわからないなんて、かわいそうだ
自分で季節を感じることができないのなら
いっそこの国からでたほうが幸せだろう

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美しさを感じる器官が、見つかっていないだけで、きっとこの体の中にあると思う。遊ぶように鳴く小鳥の声に、被さるようにして、絶え間なく流れる駅のアナウンスが聞こえる。

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電車が海辺の街を通るとき、その果てしない青さが窓の外に現れるのを、どうしていつも突然のことのように感じるんだろう。私は驚きを胸いっぱいにためて、香ってこない潮の匂いに酔いしれる。聴こえてくる音楽は私のものだし、聴こえてこない波の音だって私のもの。水平線と並行に進む電車の大きな窓を、動く額縁みたいだなと思いながら。

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アルコール消毒が染みる、11月の初めだった。紙で切ったのか、何で切ったのか。右手の人差し指、第二関節の上の小さい切り傷。さっきまでこんな傷なかったはずなのに。でもさっきっていつだっけ。意識のないときにこさえた傷は、意識すればするほど痛む。ジンジンと、なにか大切なものを犯すように、奪うように痛むものだ。

好きな人がいたことを思い出す。身体的に離れることで、精神的にも離れることができるのだと教えてもらって、本当にそうだなあなんて、香港のタクシーの中で考えていた。じゃあ誰のことも想わない自由な私はどこにいるんだろう。

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なにが幸せかわからないけど、誰かを羨ましく思ったり自分を侘しく思ったりすることを、とても醜いもののように感じている。自分を正しいと思いたい。

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突然胸を埋める、どこへもいけない、という感情はいったいなんなんだろう。現実と絶望のあいだみたいな顔して、私の体を駆け巡るもの。心臓から、頭へ、腕へ、足へ。外へ出て行こうとはせず、体内を永遠に循環する。ちっとも寒くない冬の、赤と金色に光るクリスマスツリーみたいだ。

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心も体も肌もボロボロだけど自分は大丈夫と思える瞬間が確かにある。自信とはまたちょっと違った感覚で。たとえば新しいネイルをした日とか、可愛いコートを着ている冬の日とか、素敵な思い出を思い出すことができた日とか、そういう類の、私が選んだ私を構成するものが素敵である時、どんなに大丈夫じゃなくても、心は温かく、大丈夫だと思える。

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一人でいることは、まるでマラソンみたいだ。ずっと心地よく走っていたのに、少し歩いてみたら、それがとても楽なことに感じられて、また走り出すのが億劫になる。走り出しても、苦しくて、つらくて、また心地よさを感じるまでに辛い時間を過ごさなきゃいけない。嫌になってまた歩こうとしてしまう。

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目が悪くなって、見える世界が物理的にぼやけてしまうようになった。シャープな輪郭を失った物体たちをぼーっと見つめながら、そういえば子どもの頃、美術の時間に、この世には輪郭なんてないと言われたことを思い出したりする。人間を描写する時に、黒い線枠を描き、その内側を肌色で塗った私に対して、先生が、本当にその黒い線はある? 肌の色はそれだけ? あなたが見ている黒い部分は、肌の色が陽に照らされず、影になってしまったところなのよ、と。それなら、私と私以外をわけるものってなに?

そんなことを思いながらプラットフォームで電車を待っていると、ナチュラルに走ってきた2人の小学生に列を抜かされた。そこにいた大人全員が少し驚いた顔で彼らを見つめていた。開いた電車のドアに向かって走り出した彼らは、角の席を向かい合う形で陣取り、持っていたサブバッグを隣の席にはみ出る形で体の横に置いた置いた。白いポロシャツに男女異なるチェックのボトムス。あんな服着たことなかった。ど田舎で育った私と、大都会で6歳の頃から千代田線を乗りこなす彼らとでは、どんなふうに、異なる人生を歩むのだろう。

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そういえば、ホワイエという言葉が好きだった

わかってもわからんでも念佛しなさい

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涙腺ってダムみたいになってるんだと思う。それは一度決壊したらそれを自分でどうにかすることはできなくて、溢れて溢れて流れていってしまう。雨はすぐに止んでくれたりしないから、何度も、クセになってしまったみたいに、脆く簡単に壊れてしまうようになるのだろう。

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24歳の誕生日に友人から貰ったメッセージを見返して、その言葉のあたたかな強さに、夜の目黒を歩きながら泣きそうになった。それは本当に強く思っている人にしか書けない言葉で、なぜ私がそれを信じられるのかというと、私が彼女が嘘をつくのが本当に下手くそだと知っているからなのだった。

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今まで恋人に言った一番キザな言葉を暴露する、という罰ゲーム。

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喫茶店に入ると、冬の暖かさ

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ふと、今からでも、私は違う人生を歩めるのだろうなと思う。池の上で降りずに、明大前まで行って、京王線に乗り換えて、

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ずっと海が苦手だった。なにもかもを見透かしてしまうような壮大さに、飲み込まれてしまいそうで落ち着かなかった。だけど最近は、海を好きになれた気がする。

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制限を持った創作においてのみ発生する、人間の理性的なもがき

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思いを巡らすということが、旅なのかもしれない

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人を好きになることは小説を読むことみたいだ

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自分が生来痛みに疎いことを自覚していて、それは物理的にも精神的にもなのだけど、最近は自分の心に静かに何度も傷をつけることで、その傷の痛みを感じなくなるように願っている。言葉にすると自傷行為みたいで嫌だな。でも自分のなかでは避けられないから仕方なくやっていた、みたいな感じ。それは誰のためでもなく、たぶん少しだけ未来の自分のために。でもそんなことが理由ではなく、本当に、そうすることでしか痛みに慣れる、もしくは慣れることしか忘れる方法を知らなかったのだった。なんなら自分がそれを知らなかったことも、知らなかった。

そうして痛めた心は、残念ながらちゃんとわたしの中にある。なんでこんなに痛まなきゃいけなかったんだろうって、嘆きながら最近を生きている。「ハートに巻いた包帯を」なんて歌詞があったけど、外傷のない、握りつぶされるような痛みに耐えている感覚。もしかしたら、痛みとも違うのかもしれない。圧のような。力のような。抗えないなにかが、ずっと自分を潰そうとしてくる感覚。今のわたしは、傷だらけというよりか、なんかしわしわって感じ。

そんなみったくない姿を誰にも晒したくなくて、なんとなく自分を繕いながら毎日を過ごしている。「無理してる?」なんて言われたりもしたから、繕えてないのかもしれないけど。

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ガラスの花瓶を割った。先月買ったばかりの、お気に入りだったやつ。白いふわふわのお花を数本生けていた。あっと思った瞬間ガシャンと大きな音を立てて床に散らばったガラス。美しい曲線と直線で構成されていた花瓶は、粉々のカケラとなって、私を傷つけるものに変わった。美しいものから、傷つけるものへ。

かたちがないものが壊れてしまうときも、同じようなものだ。それは美しく私を魅了するものだったのに、壊れてしまってからは、私を傷つけるものに変わってしまったようだった。何度も思い出して、心がぎゅっとなる感覚に耐えている。

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信頼できると思っていたものが、ひとが、ことが、信じられなくなってしまったこと。

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心の体積をいっぱいに使って想っていたことを、結界したダムから流れる水のような勢いで奪われ、なにもかもを飲み込んだ濁流の先に取り戻した平穏な日々が今だとしたら、偽りの穏やかさ、嵐のあとの静けさのような凪で、毎日を過ごしています。

やっぱり悪くなり続ける視力のなかで、だけど見えないものを見ることは、大人になるにつれできるようになってきました。

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記憶が私を生かしているのであれば、これから生きていくために生きているのかもしれない。

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