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6月7日「青い印をつけてあげるね」

それにしても、今日も今日とて「何にもなれない」という言葉にずっと頭を支配されていて、苦しいくらい、もう何でもない自分を認めてしまうしか方法はないのだとさえ思う。というか、何かになりたいと自分が思っているのかすらわからない。思っているような気もするし、思っていないような気もする。そもそも何かになるって何なんだって感じだし、それに価値があるとも思わない。ただもう一種の癖みたいだ。「私は何にもなれない」と、もはや言い聞かせているかのように、もしくは責めているかのように、そればかりを考えて、絶望している。

結局考えていることは全て堂々巡りで、それに居心地の悪さみたいなものを感じていることは間違いないのだけれど、かと言ってそこに答えを求めてはいないのも確かだと思う。結論をだす必要のない思考をぐるぐると辿ることができるのは、ある意味贅沢なことであり、もしかしたら近い将来そんな余裕もなくなってしまうかもしれないので、今は存分にぐるぐるし続けたいと思っている。

昨日、「誰かに寄りかかることで、私は自分を認識している。」ということをわりとネガティブな方向性で書いたけど、今日読んだ文章の中にそれを肯定するようなものがあって、面白かったので残していく。

例えば私たちが、空を認識しなければそれは空ではないし、花を花だと認識しなければそれは花ではない。同じように、私でない誰かが私を鎌上真帆として認識しないのであれば、私がいくら名乗ったところでそれは嘘になってしまう。誰かが認識して認めてくれないと、私は鎌上真帆になれない。全てのものは自分ではない外的な要因によって形作られていて、そして私も何かを形つくる外的要因である、ということ。

ちょっとくどくなっちゃった。

そもそもこんなのは当たり前のことで、今更だなと思う人もいるかもしれないけど、なぜか私は人との関わり合いを通して自分を形成していくことにとても否定的であったし、それを相対的な自分であると卑下していたので、この発見は自分にとって大きな一歩だった。

他者と関わるのは苦手な方ではないし(まあ得意でもないけど)、というか好きだから接客業の勉強なんてしてたんだろうけど、今だにすごく怖いことであると思う。一方でその恐れを忘れてはいけないのだとも思う。

一ヶ月前に感じた「突発的な寂しさ」を、私は自分の内側的な問題だと考えて不思議に思っていたけど、きっともっと深く潜っていけば、自分ではない何かに対しての感情だったのかもしれない。絶対的な自分を積み上げたいと思っているけど、一方で、そんなものはあり得ないんだとそんなことを少し考え始めている。


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