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8月8日「最近の雑記」

家の花がどんどん枯れていく。可愛い花瓶を見つけたからと安易に買ってきた木の枝の葉がカラカラに乾いてしまったとき、私はまた一つ自分の無力を恥じた。水切りしてスプレーしてあげても、青く張りを持ったあの夏の葉に戻ってくれない。一度失くしたものは、もとには戻らない。

久しぶりに自分のために文章を書いている。長く間が開いたのは、その行為がどんどん怖いものに思えてしまって、ずっと先延ばしにしてしまったから。だって自分のなかに言葉がないことを、認めたくなかった。でも頑張って書いてみると、やっぱりひとつ筋の通った文章はかけなくて、ぽろぽろと溢れてくる断片的なものを、ポストイットのようにどんどん貼り付けていく感覚に気がつく。それは自分で自分に失望するには十分で、だけどまたここから始めないといけないのだと、キーボードの上で止まってしまう指を眺めている。

最近。満たされもせず、欠けてもいない日々を送っている。なにににも不満はなく、でもどこかで、スッキリとしない毎日。人に聞かれても言葉にはできず、自分の奥深くの中で、ギタギタと何かが煮えずにあぶくだっているような感じ。そんなときいつも、なにも持たなかった空っぽな日々を思い出す。小さな部屋、朝日の見える丘に通ずる窓際に飾った花を触って、私の他に生きているなにかがあることに安心していた日々。ビロードのようなピンクのチューリップを、冬の日に友人にあげたりしていた、おかしな日々。

記憶があなたを生かす、と聞いたとき、それはストンと落ちて、なんだか私は少し安心さえしていた。そして次の瞬間、じゃあ私は、これからの私を生かすために、いまを生きているのかと思った。ならもっと綺麗なところに行って、素敵なことをして、美しい言葉を見つけないと。空っぽで自由な私にならないと。じゃないと、未来の私は何を思い出し、何を拠り所にして生きていくんだろう。

少し前のメモに、「自由とは、一人で立っていられることだ。誰にも頼らずに、想わずに、凪いだ心で立ち止まっていることだ」という言葉を見つける。それはあの夏のプラットフォームで、アイスラテを飲みながら電車を待ちぼうけていた私の心で、どこにだっていける、どこにだっていけるのに、ここに行こうと決めた日のことだった。名前も知らない海の上を、電車にのりながらスイスイと泳いで、鳥のように山間を抜け、知らない街の歴史の一部になっている私。

現実。朝、ゴミを出すために外へでると、むわっと波のように押し寄せる湿気の中に、塩素の匂いを見つけることがある。その瞬間私は、夏の京都の夕方へとトリップする。あの頃の私と、今の私と、何かが大きく違うようで、でもそう自分が思っていただけで、きっと何も変われていないことを知る。

5月の初めに、泣き喚きながら夜道を歩いたことがあった。そのとき私は、ほとんど自分のなかに存在していないある人と、その人が過去の痛みを酒の席で笑って話すことを思い出していた。それはなにかを乗り越えたわけではなく、すでに何度も泣いて、喚いて、どんどん濾過されてしまった小さな本物の気持ちの塊が、もうすでに深淵まで沈み込んでしまって、見つけられなくなってしまったということなのだと、そのときやっと理解した。

私は最近、そうなることをとても恐れている。どうやって私たちは、色んな痛みを忘れて生きていくんだろう。いや、忘れるということは本当に怖いことだけど、もっと怖いのは、忘れたふりして、まるでなかったかのように生き続けていくことだ。ほんとうにそんなことがあったのかと思うほど、遠く遠くまで辿り着いてしまうことだ。そして、遠くまで辿り着いてしまった人を目の当たりにしたとき、あの頃から動けていなかった自分の居場所をつきつけられるのが、なによりも寂しいことだと思うのだ。



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