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ばあちゃんの存在と私の半生①

ばあちゃんが死んで、2年半。

そろそろ墓前に行ってもあまり号泣しなくなった。
こうやって記憶が鈍くなっていくことで、乗り越えるのだなと改めて実感。
わたしにとって、大事な、特別な存在だった。

いつかばあちゃんの存在と私の半生について、まとめ程度に穏やかにつづりたいと思っていたが、なかなか文字数が多くなりそうで書けなかった。

ばあちゃんが死んで、2年半。
もうそんなに経ったのだ。

そろそろ大事な感覚も徐々に薄れてきているので、乱雑に残そうかと思う。
気持ちの赴くままに書くので、あまりまとまりはないだろうけれど。



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(1)ばあちゃんとじいちゃん


ばあちゃんはいいとこのお嬢さんだった。
女3姉妹の真ん中で、まぁそこそこ仲良かったのかな。
女学生の時はぽっちゃりしていたと聞いた。
女学院にいって、じいちゃんを紹介されて結婚。
じいちゃんは医者の家系で、開業医だった。
円満そうな上流階級の結婚の、イメージ。

衣服を買うのだって、反物屋が家に来て生地から決めてオーダー。
銀行だって用があれば家に呼び御用聞き、そんなお家だったそうだ。
いい歳になってから100均に行って興奮気味だった姿が忘れられない。

じいちゃんは、結婚したもののその後は戦争で、戦医として戦地へ
その後、直ぐに戻れずにシベリヤで抑留
医者として、敵味方なく医療に従事していたと聞く。
生のジャガイモやアザラシ肉なんかを食べながら続く過酷な強制労働。
仲間がどんどん亡くなっていく中、人一倍体の大きかったじいちゃんは、強く生き抜いてきた。
帰国できるとなった時、皆を先に帰して一番最後に帰ってきたと聞いた。

じいちゃんが帰ってきてから、父ちゃんと父ちゃんの妹が生まれた。
本家と同様に、医者の道に進ませないといけなかった時代。
特にばあちゃんは、厳しく父ちゃんの教育をしていたそうだ。できなければ竹の物差しでとにかく叩き続けた。
とても厳しい教育。プレッシャー。

ある時、父は途中で壊れてしまった。
医大への道を放棄することになった。
それは一家の大事件であり、一家心中をしようとする

幸いにも失敗に終わり、父は勘当同然で家を出る。
ばあちゃんは、失意の底であったと聞いた。

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(2)孫の誕生と、じいちゃんの病気


家を出た父は、若くして長距離トラック運送でよく稼いだそうだが、追突事故に巻き込まれ後遺症を負う。
一度結婚するがうまく続かず、離婚。
その後、母と一緒になり、そのうちに姉が生まれる。
トラック運転手をやめた後は、よく面倒を見てくれた不動産会社社長のもとで不動産を学び、のちに独立し会社を創る
父の並外れた経営力に時代も味方し、会社はどんどん拡大する。

時系列は曖昧だが、この頃には私も生まれており、じいちゃん、ばあちゃんと同居するようになっている。

姉は生まれた時から体が弱く、幼い頃軽度の障がいが見られ健常者の学校への入学が難しいかもと言われていたため、母は特に姉をよく見ていた。
また、私を出産した時に重篤な状態になり、何とか息を吹き返したものの出産後は長期入院をしていたので、赤ちゃんの時から私の面倒はよくばあちゃんが見ていた。

じいちゃんは脳梗塞でいつしか倒れており、そこから恐らく少なくとも6年以上の寝たきりとなる。
私が生まれてまもなくの時は車いすで、私を可愛がってくれていたそうだ。
物心をついた頃には残念ながら、寝たきりで言葉を発することも意思疎通をすることもできなかった。
開業医で実家が元々病院だったせいもあり、自宅療養をしており、じいちゃんと親交のあった病院のお医者さんが家に往診に来てくれていた。

一度だけ、じいちゃんが私を呼んでくれたことをうっすら覚えている。
じいちゃんが好きだった私は、おしゃべりできなくても介護ベッドによじ登り、無理やり布団に潜り込んで一緒にお昼寝をよくしていた。
ある日、私がどうやらベッドから落ちそうになったらしい。
その時にそれを見て、「弥生!」と叫んだそうだ。手も動かないが、咄嗟に声が出たのだろう。
とても大きな声で、隣の部屋にいたばあちゃんたちも驚いたと聞いた。

ばあちゃんはじいちゃんの介護を献身的にしていた。献身的過ぎて、家はやや自粛ムードが強制されていたようなところがあり、旅行に行くのひとつも「じいちゃんがこんな状態なのにそんな気分になれるわけがない」というような状況だったそう。

静かで仄暗い時期だったようだ。


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(3)ばあちゃんと父と、母


ばあちゃんは以前から母に強く当たっていた

母は田舎生まれ田舎育ちで、貧乏な家の子だった。
2人兄妹で、絵を好みデザインの専門学校に行っていた。

母の父は、生まれつき身体に障がいがあり、それでも持ち前の手先の器用さと健常者への異常なほどの反骨精神の強さで鉄工職に就き、職人として仕事を請け負っていたようだ。なんとか2人の子どもを育て上げた。
しかし、そこそこ貧乏ではあったようで、切り詰めながら学費を捻出。
チャボやウズラを飼ってたまごを産ませ、田んぼでドジョウを捕まえて夕飯にしたり。
自然の多い中で、質素に暮らしていたように聞いている。

育ちも家系も学歴も良くない母との結婚は、ばあちゃんにとっては面白くなかったようだ。駆け落ち同然で結婚し、孫を生んだので同居を始めたものの、嫁へのマウント取りやいびりも最初はひどかったそう。

ところで、父は女癖がとんでもなく悪い
女癖というか、複数女がいて当たり前なのだ。他の女と遊ぼうが何をしようが、母にも何も言わせない。
嫌だというなら、帰らない。俺と一緒にいるというのはそういうことだ。文句があるなら出ていけ、というようなものだった。
近所のマンションを何個も買って愛人たちを住まわせたり、家や車など買い与えていた

社員旅行があり、飛行機を貸し切って何度も海外旅行へ行ったが、その時も常に、家族には秘書兼愛人が一緒だった。子供からしても、愛人さんたちは身近にいて、よくお喋りをする仲だった。

そして父は、とても荒っぽい面がある。
とても頭が良く切れる一方で、利己的であり、支配欲が強い。カリスマ性もあり男女から惚れられるが、時に暴力的で乱暴。
派手なシャツを着てサングラスをかけ、黒い外車を乗り回し、部下を舎弟のように使う。見た目はほぼ、極道の人だった。
ばあちゃんから厳しく育てられた父は元々繊細であり、壊れてから自分を正当化するためにがむしゃらに功績を作ってきたこともあり、実績を盾に、自分のすることが誰より正義だという顔をしていた。

母は耐えていた。
他の女を愛しほとんど帰ってこず、圧力の強い父。
嫁いびりの激しい、お嬢様育ちの姑。
介護しつづけなければいけない寝たきりの舅。
障がいがあり手のかかる子供。
ワンオペの子育て。
金目当てだと聞こえるように揶揄する近所の人々。
ずっとずっと、耐えていた。

たまにヒステリックを起こし、泣いて壊れていた。
そしてヒステリックが収まると、泣いて謝っていた。

優しかったけれど、常に追い詰められていたためか、子供を叱って言うことをきかせるので精いっぱいだったのもあって、怒っている印象が強かった。


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(4)歪んだバランス


幼かった私には、いろんな景色が見えていた。

私にだけ優しい、陽だまりの香りのばあちゃん。
寝たきりだけどいい匂いで、一緒にお昼寝をしていたじいちゃん。
舎弟や派手な女性を連れて酒臭くて偉そうで怖い、子供嫌いの父ちゃん。
姉の通院ばかりの、強くて弱い、たまに優しい壊れかけの母ちゃん。

私が小学生にあがったくらいに、じいちゃんが他界した。
しばらくすると自粛ムードもなくなり、さらに激しくなった家庭のバランスは、静かにグラグラしていた。

ヒエラルキーの小さな振動がたびたびあった。
【 ばあちゃん > とうちゃん > かあちゃん > 子供たち】
変わることのない家庭内のヒエラルキーだが、小さなことでマウントを取り始めたり、わずかな歪みが生じたりする兆しがあった。皆が状況を見ながら、機会を狙いながら、日々を過ごしているように見えた。

皆味方を増やしたいので、そのうち子供を使い始める。
懐柔して口裏を合わせたりもあった。それによって後悔するようにもなったし、張り詰めたような緊張感も嫌だった。

それでも「円満な家庭」を演じることは、共通認識だったようだ。
常時冷戦ではあったが、小さな衝突が生じてしまうこともある。そしたら、翌日になるとリセットされるのだ。

前日のごたつきは無かったことになり、誰も口に出さない。
皆で笑顔で朝食を食べ、また腹の探り合いが始まる。

そのうち、今この時は誰につくのが正解なのか、その時々の優位者を見極めなければと、顔色をとにかく見るようになった。
寄ってくる周囲の人(父の部下や関係者、愛人など)もその一員だったということは、徐々に知っていった。


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